2007年5月27日日曜日

声出せ、声! という話

大学院を卒業してからしばらくしたころ、僕はドイツのシュトゥッツガルトに滞在して共焦点顕微鏡のプロジェクトを手伝っていました。この滞在は僕にとって初めてのドイツ訪問であり、また、僕にとって初めての言葉の通じない外国で働くという経験でした。なんとか成果を挙げないといけないというプレッシャーもありましたし、それよりなにより、いろんな事を相談できる相手がいないというのもきつかったのです。そういうストレスでふらふらになりながら、僕が毎晩欠かさなかったのがドイツ語の勉強です。簡単なテキストを、CDを聞きながら、何度も何度も声に出して繰り返し読んでいました。今になって考えると、あのドイツ語の練習が、うまい具合にストレスを減らしてくれていたのかなあと思います。

技術というのは、まだろっこしいものです。技術屋がどんなに「人の役に立つ技術を作ろう」としても、結果的に、それが使えずにストレスを感じて胃に穴があく人もいれば、間違った使い方をして怪我をする人もいます。それどころか事故を起こして死んでしまう人までいます。技術屋は、人を幸せにするような技術を作っていきたいのだけれど、それが本当に人を幸せにするかどうかは、それはまた、別の話なのでしょう。

以前、僕がまだ学生だったころ、自分の実家まわりでいろんなごたごたが起ったことがあります。まあ、事態は当時の僕がどうこうできるレベルを超えてしまっていたので、僕としてはおろおろするばかりです。そんなとき「絶対に人を幸せにできるものってなんだろう」と考えました。で、僕の結論は「歌」と「笑い」でした。まあ、理由は単純。その時僕が「歌」と「笑い」で楽になったからです。辛くて飯も食いたくないような時でも、ちょっと鼻歌を歌うと楽な気分になりますし、笑ってる場合じゃなくても、テレビでお笑い番組でも見てあははと笑うと、だいぶんと楽になったりもするのです。不謹慎で、子供っぽいのでしょうが、事実、そうだったのです。

この「歌」と「笑い」、どうして人を楽にさせるのでしょうか?楽しい歌だから、楽しいネタだから、ではないと思います。だって、悲しい歌でも大声で歌うと楽になるし、人情話みたいな悲しい落語でも、聞けばすこし楽な気分になります。実は、僕、この原因、もっとすごく単純なものではないかと思うのです。それは「声を出す」ということです。

人が死ぬと、お通夜をして、お葬式をします。で、お通夜やお葬式ではお経を詠みます。まあ、このへんは宗教、宗旨、宗派によって違うのでしょうか、大多数の日本の家庭ではお経を読むのではないかと思います。僕これ、不思議だったんですね。人が死んで残された家族は悲しんでいるのに、意味も理解できないお経を延々読まされるわけです。悲しくてそれどころじゃないはずです。

この謎は、僕の祖母のお葬式の時になんとなく氷解しました。あんなに悲しかったのに、お経を声に出して詠んでいると、なんとなく楽な気分になったのです。多分、意味のわからないお経を「声を出して詠む」というのがポイントだったのです。声を出すから、人は楽になるのです。たぶん、お葬式、そしてお経というのは死んだ人のための儀式ではなく、その近くで生きて悲しんでいる人たちを救済する機巧なんだと思います。だから、お経には独特の節が付いているし、だまって「読む」のではなく声に出して「詠む」のでしょう。なんの根拠もない推論ですが、実際に祖母の葬儀の際に僕が楽な気分になったことは確かです。

判ってしまえばからくりは単純です。「声」さえ出せばいいのです。それだけで人は楽になるのです。だからいらいらした時とか「ああ!」とか、意味のない声を出すだけですこし落ち着いたりするのでしょう。僕はやったことないですが、ストレスたまった時とか、大声で叫びながら街中走りまわったら気持ちいいでしょうね。でも、まあ、そこは文明社会、そうそうそんなことするわけにもいきません。替わりに自宅で一人、ぶつぶつ何かを声にだしているだけでもだいぶ気分は楽になったりするのでしょう。でも、まあ、それはそれでやばい風景ですね。気分がすっきりして我に帰った後、またしょげてストレスたまってしまいそうです。無限道です。

で、最初の話に思い当ったわけです。多分、僕がドイツにいたとき、必要に迫られてやっていたドイツ語の勉強が、結局、ストレスのマネージメントになっていたのではないかと。語学の練習は、声を出します。しかも、きちんと大きい声で発声したほうが上達も早いと思います(僕の経験上ですが)。だから、語学の勉強である限り、ひとりで大きな声を出していても、ぜんっぜんやばくないのです!奇声をあげて夜中に町中をはしりまわるのとは大違いです。後で我に返ってしょげることもありません。人に聞かれても「あ、ドイツ語の勉強してた」と言えばいいのです。「熱心だねー」と、むしろ褒められるかもしれません。しかも、語学力が上達するという思わぬメリットまであります。

この方法、かなり使えると思います。たとえば僕たちエンジニアにとって、英語は必要なスキルです。でも、忙しすぎてただでさえストレスたまってるのに、この上英語の勉強なんてやってられっか!と、まあ、普通は思いがちです。でも、英語の勉強がそのままストレス解消になるとしたら話は別です。英語も身についてストレスともおさらば。夢のようです。日々のストレスにさいなまれている皆さん、語学の勉強でもしてみてはどうでしょう?疲れて家に帰ったら、大きな声でテキストの音読です。何もせずに風呂入って寝るよりは、疲れがとれると思いますよ。

Joschi

2007年5月22日火曜日

猫の皿洗い

最近、ちょっと真面目な話題が多かったので、久々にどうでもいい話。

僕は現在猫と二人暮らししています。。同居猫は先日、このブログでシロ猫との浮気を暴露された「きちぢ」です。そのきちぢ、最近その浮気を反省しているようで、だいぶ素行を改めだしました。その証拠に、この猫、ついに僕の留守中に家事をするようになったのです!

話はすこし戻ります。最近おなかの周りの贅肉の気になりだした僕(32歳独身)は、仕事帰りに「高機能体重計」を買ってきました。あの、ほら、足のところに金属の板みたいのがついてて、さらに、グリップ握って、体脂肪率とか骨格筋率とか測定できる体重計です。土浦のイトーヨーカドーで体重計を購入した僕は、お年玉でゲームを買ってきた小学生よろしく、体重計の箱を抱えて嬉々として帰宅しました。そして、おもむろに体重計を箱から出すと颯爽とグリップを握り、自らの体重と体脂肪率を測定したのです。

体重 63 Kg、体脂肪率 22.5%。やや肥満。ショックです。かつては体脂肪率 12% を誇ったわが肉体も、いまやただのおっさんです。しかも、さらにそれに追い打ちをかけるように、僕はある表示に気付きました。「体年齢37歳」。体年齢。その字面から想像するに、「体の年齢」なのでしょう。やっぱり。よりはっきり言えば、自分の体がどれぐらい年をとってるかということなのでしょう。つまり、まあ、なんというか、その、あまり認めたくはないですが、僕の体は37歳なみと、そういうことなのでしょう。安野嘉晃(32歳独身、体年齢37歳)。と、言うことですね。普通にしょげます。

一念発起した私はダイエット+健康的な食生活を決意しました。まず、毎日の晩酌を止めることにしました。これはいまのところ、5日間続いています。知人たちにアル中あつかいされる安野のことですから、これだけでも大したものです。そしてさらに、今回の健康生活のもう一つの柱として「朝食」を据えたのです。

今の生活、まあ、エンジニアの人はわかると思いますが、帰りが遅いです。そして、帰宅してから食事をとっていると、まあ、晩飯食べ終わるのが12時過ぎとか、そういう風に平気でなるわけです。で、今まではそんな状態で酒を飲み、そのまま寝たりするわけですから、朝飯なんて食べる気にはならなかったわけです。朝は胃袋動いてないですから。こんな食生活が健康的であるわけがありません。そこで、こう決めました。晩飯は軽くつまむ程度にして、朝飯を食おうと。この生活、やりはじめて見ると(あたりまえですが)かなり体調がよくなります。いままでサプリメントだ納豆だといろいろ健康に気を使ってみましたが、なんというか、そういう問題ではなかったんですね。結局、食生活の根本がまちがっていたわけです。


で、この朝食、最初のうちはパンとか食べてみたんですが、どうも寝ぼけまなこでパンをモソモソやると、のどが渇いて食べにくいんですね。そこで、小学生だったころを思い出し、コーンフレークを買ってきました。で、当然そこに牛乳をかけて食べるわけです。これ、(あたりまえですが)うまいですね。朝っぱらから喉を通る冷たい牛乳とフレークの歯ごたえが最高です。37歳独身の体にしみわたります。ああ、僕は健康になっていっている、という根拠のない幻想につつまれます。そんなすがすがしい気分なわけですが、所詮は37歳独身、食べ終わると後片付けとかはせずに、お皿をそのままにして毎日職場に出かけていくわけです。

そんな生活を始めて数日たったころ、ふと、あることに気付きました。帰宅して、畳の上に置きっぱなしになってあるフレークのお皿を見ると、なんか、ピカピカになっているのです。まるで誰かが洗ってくれたみたいに。僕は勿論洗っていませんし、僕以外の人間はこの家には入っていないはずです。ふとそばを見ると、猫のきちぢが幸せそうにニコニコこちらを見ています。その時僕はすべてを悟りました。きちぢ!君が皿を洗ってくれたんだね?「にゃー」それを肯定するようにきちぢは小さく鳴きました。

きちぢと暮らし始めて11年、いままで僕が一方的に養うだけで、掃除も洗濯もまったくしてくれなかったきちぢ、そんなきちぢがついに皿洗いをしてくれるようになったのです。ありがとう、きちぢ。なんだか、また一段ときちぢとの距離が近くなった気がしました。きちぢは僕の自慢の猫です。

でも、未だに解決できていない疑問もあります。どうしてきちぢは洗ったさらをわざわざまた畳の上にもどしたのでしょうか?どうしてコーンフレークの皿の横の湯呑は洗ってくれなかったのでしょうか?いや、なにより、それ以後もきちぢが牛乳をかけたコーンフレークの皿「だけ」を洗ってくれるのはなぜでしょうか?

この疑問の解けないうちは、きちぢの洗ってくれた皿も、自分で二度洗いしてから使うようにしています。

Joschi

2007年5月18日金曜日

負けて悔しい話

先日このブログに「負けて嬉しい話」というのを書きました。舌の根も乾かないうちにその逆の話。逆の話なのですが、これも同じ学会(アメリカの眼科科学会 アルボ・ARVO で感じたことです。


日本の科学技術は進んでいます。なにせ科学技術立国ですから。僕が子供の頃(1980年代)は確かにそうだったのかもしれません。まあ、そのころ僕はただのパソコン少年だったので、本当のところはわかりませんが。でも、少なくともそう信じて育ってきました。そのまま大学の工学部に入って、大学院に進みました。そのころもまだ、日本の技術は世界と肩を並べていると思っていました。だって、日本の学会に行くと偉い先生たちがそういうような事を言っていますし。たとえアメリカのグループがいい結果を出していても「独創性では日本の研究の方がすごい」らしいです。それに、アメリカは大国でお金もあるし、人もたくさんいるから、まあ、アメリカの方がすごいのは当然、でも、日本だってそれとタメはっているのです。と、信じていました。

2004年の1月、僕は初めてアメリカ・サンノゼで開催された Photonics West (BiOS) という学会に行きました。そこが、僕たちの研究分野の一番の大イベントの会場だったのです。僕たちはまだ日本の中でも駆け出しのグループで、国内でも無視されているような弱小グループでした。日本には僕たちより偉い「パイオニア」がたくさんいたのです。そんな弱小グループの僕が、サンノゼに行ってみました。行ってみたら、日本人は僕一人でした。日本で有名な「パイオニア」の先生の名前なんて誰も知りません。そして、その学会で発表される結果は技術先進国日本で、えらい大学の先生たちが発表し、そして多くの人たちがそれが世界の最先端であると信じていた技術の遥か先を行くものでした(注1)。ショックでした。悔しかった。日本のグループなんて、はなっから相手にされてないのです。

その学会から帰ってきてから、僕は周りの人間とよくもめるようになりました。僕一人、いつもイラついていたのです。周りに「お前らの信じてる世界は全部うそっぱちだ!世界はずっとずっと先にいってる!」っていっても、誰も信じてはくれないのです。そりゃ、そうです。僕だって、その学会に行く前にそんな「わけのわからないこと」聞かされたら「何いってんの?こいつ」と思うでしょう。だって、日本と世界の差は、普通に想像できる範囲を遙かに超えてたわけですから。

次の年、無理して予算を工面して、スタッフ全員をサンノゼに連れて行きました。そうしたら、僕と同じように「わけのわからないこと」を言う人間が増えました。その後は、辛くもあり、楽しくもある数年でした。そして、やっとこさ最近、この研究分野で、世界の中で日本のグループが認知されるようになってきました。僕たちのグループだけではありません。日本のグループ全体の話です。今年の BiOS では、この研究テーマのセッションの日本のグループからの発表が全体の 10% を超えたそうです。最初の年には話しかけてもろくに相手もしてくれなかったトップグループのリーダーの一人に「ここのところの日本のグループの成長はすごいなあ」と言われました。まだまだ世界に並ぶところまではいってないけれど、それでも凄く嬉しかった。なんだか、僕たちみんなが頑張ったことで、すこし世の中が変わったような、そんな気がしました。それが今年の1月のことです。


その3ヶ月後、僕たちはまたアメリカに行きました。フロリダで行われたアルボ(ARVO)に出るためです。僕たちが今までやってきた研究分野では、日本のグループは健闘していました。まあ、まだ全然勝ててはいませんが、でも、誰も日本のグループを無視したりはしなくなりましたし、きちんと同じ目線で技術の話をしてくれるようになりました。

でも、そこでふと、少し視野を広げて研究分野を見てみたのです。僕は技術屋ですから、眼科の臨床研究じゃなくて、眼科の工学技術の分野です。そこで愕然としました。その視野で見ると、日本はやっぱり、未だ世界に相手にもされてないのです。でも、僕が愕然としたのはそのことではないのです。そんなことはとっくに判っていましたから。僕が愕然としたのは「結局日本の中の世界は3年前と何も変わっていない」という事に気づいたからです。

未だに日本には日本独自の「パイオニア」の偉い先生がいて、みんなそれを信じていて、すごい金額の税金がそこに投入されていきます。でも、一歩世界に出れば、そんな人間、だれも相手にしてないのです。いや、正確には、そんなパイオニアがいることなんて、世界のパイオニアは全く知りません。だって、話にならないのですから。日本の技術は世界の10年近く後ろを歩いているのですから。アメリカのポスドクの一人に「この分野、日本の論文全然でてないね」といったら「オフコース!」と言われました。ショックでした。悔しい。

サンノゼでの悔しさから3年たって、大切なことは結局何も変わっていません。変わったことと言えば、役者がちょっと変わっただけです。研究分野は少しかわったし、それにかかわるグループも変わりました。でも、それだけです。日本は相変わらず「技術立国」のままだし、やっぱり今でも日本には「日本のパイオニア」がいます。


僕は、もう嫌です。こんな状況の中でだくだくと、ゆっくりと、でも確実に死んでいっているような、そんな生き方は、もう嫌です。日本の技術が世界をリードしていると思っている人は、勝手に思っていてください。僕たち COG が フーリエドメイン光コヒーレンストモグラフィー(FD-OCT) のパイオニアだと思っている人がいたら、それは騙されているのです。僕が騙していたのです。今の FD-OCT の基礎を気づいたのは マサチューセッツ総合病院のグループです。今までだましてすいませんでした。でも、これからは、もう、そんな嘘の片棒は担ぎたくありません。

いい加減、眼を覚ましてください。日本の眼科工学は、世界をリードなんてしていません!そんな偉い先生の言う事を信じて大量の税金をそこに投資している人がいたら、逃げずに、きちんと、自分の眼で世界を見に行ってください。僕たちは負けてるのです。しかも、惨敗です。


信じない人は信じなくて結構。現実の外でへなちょこなプライドを満たされたい人は、勝手にやってください。負けた悔しさを感じる感性も鈍らせてしまうようなニヤニヤなパーティーも、大本営発表みたいなシンポジウムも、もうたくさんです。僕はもう、付き合いません。僕はもう一度、一番下から這い上がります。どうせ、守るようなポジションも、人に胸を張れるようなステータスも僕にはありませんから。「成功」が好きな人はご自由に。僕は「成功していく面白さ」は大好きですが「成功」には興味はありません。


Joschi


注1)その先生たちの名誉のために言っておきます。その先生たちは、今思えば、その当時からフェアにきちんと世界の状況を紹介していました。でも、聞いている方が勝手に都合のいいところだけ聞いて、都合の悪いところは耳を塞いでいたのでしょう。だって、その方が気分いいですから。今になると、その時の先生たちの立場、判る気がします。

2007年5月13日日曜日

負けて嬉しい話

僕の働いている大学に MRI の研究をしている先生がいます。何年か前、MRI の基礎を作ったポール・ローターバーとピーター・マンスフィールドがノーベル賞をとった時、その人は自分のオフィスの扉に誇らしげにそのことが描かれた記事のコピーを張っていました。それが僕には理解できなかったのです。だって、もし自分が MRI の研究をしていたとしたら、その人たちは競争相手だったわけです。で、その競争相手がノーベル賞をとったら、僕だったら悔しいだろうなあと思うわけです。まあ、僕が人一倍負けん気が強いというのはありますが。だから、他人、しかも自分の競争相手が賞をとった記事を誇らしげに掲示しているその先生の気持が、やっぱりいまいち、わからなかったのです。


僕がいま従事している研究テーマには世界中にたくさんの競争相手がいます。負けると、それは悔しいです。いや、正確には「負けたと思うこと」が悔しいのかもしれません。だって、別に、誰かが勝ち負け決めるわけではないですから。自分たちのシステムの速度が競争相手より遅かった時、自分たちの作った装置の感度が競争相手より低かった時、自分たちの撮影した画像が競争相手のそれより汚かった時。やっぱり、「負けた」と思うのです。そして、悔しくなります。「次こそは負けたくない!」とか思うのです。こんにゃろー!とか思うのです。

そういう風にして競争を続けいていると、そのうち、競争相手を強く意識するようになります。強く強く意識すると、穴があくほど相手の一挙手一投足を見るようになります。相手が何をやっても気になるんですね。一応言っておくと、ほんとに相手の体の動きをみるわけではないですよ。相手の戦略とか、技術とか、ほんとにぎっちり観察します。相手の出した論文も穴があくほど読みます。また、これが悔しいのです。相手の書いたものを必死に読むことが。自分が負けてる事を真正面から認めてるようで。

そういう怨讐の生活を続けていると、なんだか変な気持になってくるんですね。全然関係ない第三者が、その競争相手のことをしたり顔で語ったりすると、なんか、腹が立つようになるのです。「お前にあいつの何がわかんだよ!」みたいな。多分、相手の書いたものを読み込んだり、相手のちょっとした発言について何日も何日も考えたり、そんなことをしているうちに、自分の生き方がそいつに影響を受け出しているんだと思います。そして、自分の生き方に影響を与える誰かがいるならば、それば、僕はその人を尊敬している、ということなのでしょう。本人には自覚はないんでしょうが。

そうなると今度は、関係ない誰かがそういう相手のことを悪く言うと、逆に腹が立ったりするわけです。自分だって関係ないのに。さらには、自分の人生のなかの大きな決断について、その競争相手に相談したりもするわけです。相手としてはいい迷惑でしょうが。


先日、イギリスのカーディフ大学の ヴォルフガング・ドレクスラー (Wolfgang Drexler)コーガン・アワード (Cogan Award) という賞を受賞しました。眼科学に貢献した40歳以下の研究者に贈られる、なんだかすごく名誉な賞です。このドレクスラー、僕から見ると、競争相手です。向こうは僕なんて眼中にないのでしょうが。何せ、僕たちなんて世界では全くの無名に等しいですから。

そんな競争相手のドレクスラー がそんなすごい賞を受賞しました(僕をさしおいて!)。そして、先日、その受賞記念講演が ARVO(アメリカの視覚眼科学会)の総会の中で、行われました。ドレクスラーが今までの彼の研究と、その中で彼が見てきたことを紹介し終わった時、会場の聴衆は席を立って拍手していました。僕も席を立って拍手していました。

拍手も静かになって、みんなが徐々に帰っていきました。僕はドレクスラーのところまで行って、おめでとうをいって、握手をして、それから帰りました。こんにゃろー!が賞をとったことが、僕は涙が出るほど嬉しかったのです。あんまり嬉しいので、彼の受賞記事、僕たちのオフィスの扉に張ろうかなあ、と、思うぐらいです。

Joschi

2007年5月8日火曜日

民主主義と選挙と多数決の話

僕のいた小学校では、生徒たちの間で意見が分かれると、ほとんどのことを多数決で決めました。今はどうかわからないですけど、少なくとも、僕がランドセルしょって毎日大声で歌を歌いながら通っていた頃はそうでした。たぶん、あれは民主主義教育の一環なんだと思います。で、子供心に「ああ、これが公平に物事を決めるということか」と思っていました。でも同時に、なぜか少数意見をもつことが多かった僕は「公平に決めるってのは、不公平なもんだなあ」と思っていました。だって、どんなに多数決をやっても、自分の意見が通ることなんて全然ないのです。少数意見ですから。ひたすら毎回がまんの日々です。

確かに、多数決をとって多数意見を採用するってのは一見公平です。でも、ここで言う公平というのは「常に多数意見を持っている人は10回中10回意見が通って、常に少数意見を持っている人は10回中10回我慢する」という公平です。あ、いや、別に多数決が不公平だと言っているわけではないのです。実際、ある時は少数意見を持っていた人が、別の議題では多数意見を持つこともあるわけですから。僕が言いたいのは、多数決が「唯一の公平さ」ではないのではないか、ということです。たとえば「多数意見を持っている人も少数意見を持っている人も10回中5回ずつ『公平』に我慢する」というような公平さというのも、あると思うのです。

少し話がかわります。僕の働いている大学ではいろんな事を内部の選挙で決めます。学長を決める選挙、研究科長を決める選挙、専攻長を決める選挙。それぞれ、選挙管理委員が選出され、被選挙人名簿が作成され、必要に応じて立候補が届け出られます。別に選挙事務所が出来るわけでもなく、ポスターが貼られるわけでもなく、街頭演説をするわけでもありませんが、規定に基づいた「選挙のプロセス」が実行された後、最終的には組織の構成メンバーによる投票で当選者が決まります。それは大学運営の民主制という観点から一定の意味のある行為だと思います。

でも、やっぱりここでも僕は「選挙以外にも民主的な方法はあるんじゃないかなあ」と思ったりもします。もちろん、選挙に反対してるわけではないですよ。でも、特に少人数の組織であれば、きちんと話し合うことで選挙にたよらず民主的な決定はできるんじゃないかなあ、とも思いますし、逆に、選挙だって形だけで実行してしまえば非民主的になることもあるんじゃないかなあ、と思うのです。

先日、統一地方選挙というのがありました。僕は仕事の規定上選挙活動に参加することは出来なかったのですが、知人のお父さんがある市議会選に出馬したため、比較的近くで選挙の様子を見聞する機会にめぐまれました。皆さん、「候補者側から見た選挙」というとどういう印象がありますか?僕は正直、具体的なイメージはありませんでした。選挙には誰でも立候補できるといっても、実際には選挙基盤を持ってる人間じゃないと選挙に出ても何も出来ないと思っていましたし、だったら結局、世襲世襲の「議員階級」という社会階級という人達の世界じゃないかと。漠然とそういう事を考えていました。

でも、近くで見た市議会選は違ったんですね。ビラを配るのも友人・知人、ポスター貼るのも友人・知人、選挙カー運転するのも友人・知人。全部手作りなのです。そして、そういう人達と話していると、それぞれが市の政治に対する意見があるんですね。具体的なものから漠然としたものまで、大域的視点から局所的な視点まで。そういうのを見ているうちに「ああ、これが民主主義なのかなあ」と思うようになりました。「投票」という多数決が、ではありません。「それぞれ少しずつ違った意見を持っている人たちが、いろいろな事を話し合って考えながら一緒に政治に介入していく」その過程が民主主義に見えたのです。

たぶん、今まで僕は勘違いしていたんですね。それは「選挙=多数決(投票)」という勘違いです。たしかに多数決・投票という行為は選挙を構成する重要な要素の一つです。でも、それは必ずしも選挙の本質ではないのだと思います。投票に至るまでの過程もすべて含めて選挙なんですね。つまり、選挙というのは多数決よりも上位の概念なわけです。言われてみると当たり前なんですが、なかなかそういう風に考える機会って、なかったんですね。

さらに考えていくと、実は「選挙=民主主義」というのも勘違いであることに気付きます。確かに、選挙は民主主義の実装の一つです。実際に選挙に参加することで人々は自分たちの意見を政治に反映させる権利を手に入れます。つまり、民主的というのは「人々が自分たちの意見を全体の意見に反映させられる状態」の事なのではないかなあ、と思います。そして、自分たちの意見を反映させられるのであれば、別にそれを実行する形は必ずしも「選挙」である必要はないのです。たとえば、仲間 3 人で昼飯を食いに行く時、何を食いに行くかで悩んだら話し合えばいいのです。選挙なんてしなくても、それで民主主義成立です。

たぶん、選挙というのは「大きな人数の組織で効率的に民主主義を実装するための手法」の一つなんですね。だから、やっぱり「選挙 = 民主主義」にはならないのです。民主主義は選挙の上位概念であって、民主主義を実行する方法は、他にもいろいろあるのです。

こうやって順番に考えていくと、民主主義と選挙と多数決の三者関係がはっきりしてきますね。つまり「民主主義 ∋ 選挙 ∋ 多数決」ということです。多数決(投票)は選挙の一部ではあるけれで、選挙の本質は多数決ではないし、選挙は多数決のみによって成り立つわけではありません。そして、選挙は民主的な運営の一つの方法ではありますが、選挙を行うことがすなわち民主主義というわけでもありません。こう書いてしまうと当たり前の結論なんですが、漠然ととらえていると、勘違いしやすいなあ、と思います。実際僕自身も、こういう風に考える前は、たまに見かける乱暴な多数決に対して、どうしてそれに違和感を感じるのか、はっきり説明できませんでした。(まあ、そういう多数決って、だいたいが「昼飯にカレー食うか、うどん食うか」というような、たわいのない話なのですが…)

たぶん、僕たちが一番気をつけないといけないのは、多数決や選挙を行うことで「自動的に民主的になっている」と思い込んでしまうことです。多数決や選挙はうまく使えばいろんなことを民主的に決められます。でも、その前に「本当にこれで民主的なのか?」「ほんとうにこれで公平なのか?」[1] と考えてみる必要があるのではないかと思います。必ずしも多数決=民主主義ではないのです。意外と多くのことは、きちんと全員で話し合うことで多数決にたよらず民主的に解決できるんじゃないかなあ、と、僕は思います。

Joschi

[1] 僕自身は「公平」ということ自体が、実はかなりあいまいなものだと思っています。それは「公平」という概念が特定の、しかも任意な、基準に基づいた相対的な概念でしかないと思うからです。

2007年5月5日土曜日

ダメ人間はゴミを捨てないの法則。そして、ゴミ収集カレンダー RSS のレビュー。

ダメ人間って、どういう人間の事をいうのでしょうか。いや、ほんとに嫌な奴って意味ではなくて、なんとなく、なんとも憎めない愛すべきダメ人間というか、まあ、そういう意味で。どうやら、そういうダメ人間の条件の一つは「ゴミを捨てずに部屋にためこむ人間」のようです。


仕事関係で僕を知っている人は、当然知っているのだと思いますが、僕は大学で教員をやって生計をたてています。ところが、この事、仕事以外の僕の知り合いの間ではあまり知られていません。いや、隠しているわけではないのです。でも、みんなあんまり信じてくれないのです。なにより、みんななんとなく、僕の風貌から、僕が安定収入のある職に就いているとは思っていないようです。いままで勘違いされていた中で一番まともだったのが「自称イラストレーター」と「自称ライター」。さすがに「イラストレーター」は違いますが、「ライター」は当たらずしも遠からずです。論文書くのが仕事ですから。

あと、なかなか卒業できなくて年とった学生だと思われてることもよくあります。「いつ卒業すんの?」と聞かれたり。学会に行ったときに「筑波大で OCT の研究なさってるんですか?じゃあ、安野先生のところの学生さんですか?」と聞かれたこともあります。その時は「あ、まあ、そんなところです」と答えておきました。

こんな風に、いろいろ言われる僕ですが、一番広く信じられているのが「安野フリーター説」です。さすがに 32 歳で一人暮らしですから、仕事はしてると思われてるようです。猫も養わないといけませんし、収入0では生きていけませんから。でも、定職に就いているとも思われていないようです。しかも、その知人たちは漠然とそう思ってるだけではなく、どうやら、信じ込んでいるのです。たぶん、そう信じ込んでる別の誰かから聞いたのでしょう。「そういや、安野君って、仕事なにしてんのかな?」「フリーターでしょ?」とか。「ああ、なるほどねー。それっぽい。それっぽい。」とか。で、真剣な顔で「安野君、もう若くないんだから、そろそろちゃんとした仕事見つけた方がいいよ」と説教されたりするのです。まあ、そう言われて「そうですねー。なんかいい仕事ないですかねー」と本気で転職を思う僕も困ったものなのですが。

どうして僕は三十二にもなって、特に根拠なく、こんな風にみんなに思い込まれているのかと、それで僕は考えてみたわけです。僕の結論は… たぶん、オーラが出てるんですね。ぷらっぷら生きてるオーラが。憎めないけど頼りにもならないオーラが。たぶんうなじのあたりから、ゆらっゆらと、中途半端に灰色とか、そういう頼りない色のオーラが。


先日、高知の友人から「お花見やるよ」と連絡をうけました。ぷらっぷらオーラ全開の僕は即答で「行きます!」と答え電車に飛び乗りました。お花見やると四国から連絡を受け、一も二もなく出かけることも安野フリーター説の原因になっているとは思うのですが、それは、まあ、いいのです。で、そのお花見に行った先の高知で、友人と帯屋町に飲みに行ったのです。で、そこで会った初対面の人と話しているうちに、こう言われました。「あれ?安野君、ひょっとしてダメ人間?」僕「あ、はい、そうです。よく言われます」「ようこそ高知へ!ダメ人間!」と。そしてその後つづけて言われたのです。「とりあえず、ゴミは捨てような」と。

(!!!)びっくりです。確かに、うちの台所にはゴミの日に捨てそびれたビールの空き缶が転がっています。一応ゴミ袋には詰めてありますが、でも、それが4袋も。ただ、そんな話、全然まったくしてないのです。ところがなんか、ばれてるのです。いや、たぶん、ばれているのではないのです。推測されたのです。「ダメ人間はゴミを捨てない」の法則なのです。たぶん、いままで僕が知らなかっただけで、世の中にはそういう真実があるのです。


それをきっかけに僕はダメ人間からの脱出を心にきめました。かなりゆるい決意ですが。で、そのための駄一歩として「ゴミは捨てよう」と決意したのです。ゴミを捨てて身も心も軽やかに、第一宇宙速度[1]を超えてダメ人間から脱出です!

ところが、襟元から灰色のオーラを出し続けている僕にはあいにくと、「ゴミを捨てる」ただこれだけのことが出来ないのです。最大の敵は、(僕にとっては)複雑怪奇なゴミ収集日程です。燃えるごみはまだしも、カンとか、ビンとか、ペットボトルとか、燃えないこいつらを、どのタイミングで出していいいのかわからんということです。「ゴミ収集カレンダー」を見ればわかるのでしょうが、そんなのまめにチェックできるぐらいならハナから灰色のオーラなんて漂わせていないのです!

そんな僕についに救世主が現れました。それが「つくば市ごみ収集カレンダー」の「RSS」です。いやあ、便利に世の中になったものです。ゴミ収集も IT 化の時代です。この RSS、自分の使ってるリーダーに登録しておけば「今日収集予定」を毎日教えてくれるわけです。夜中の12時に更新されますから、寝る前にチェックして、ゴミをまとめて、ゆっくり寝て、翌朝出勤の時にゴミを出していけます。

まだ使い始めて一週間ほどですが、我が家にたまっていたゴミ、だいぶ減りました。この調子でいけば、心も軽く第一宇宙速度を超えられる日も近いでしょう。ただ、問題は第一宇宙速度を超えただけでは、ダメ人間の周りを周回するダメ衛星にしかなれないことですが…。

ダメ人間脱出のための第二宇宙速度[2]への道のりはまだまだ遠いようです。

Joschi

[1] 第一宇宙速度:地球の大気圏から脱出するためにロケットが必要とする打ち上げ速度です。これを超えるとロケットは大気圏を脱出し、衛星軌道に乗ることができます。
[2] 第二宇宙速度:地球の重力を振り切り太陽周回軌道に乗るために必要な速度です。詳しくは、たとえばWikipedia 日本語版の記事参照。

2007年5月3日木曜日

4,500万円で買える物

この原稿、しばらく前に書いたのですが、公開するかしないかかなり悩みました。これを掲載することで、僕自身の立場も悪くなるのかもしれません。でも、昨今の僕か見える風景を「うん!」と感じていると、やはり、誰かが声を出さなければいけないのではないかと思います。この原稿を読んで不快に思う人も多います。僕は、僕の意見がただ一つの正しい意見だとは思いません。もし、この原稿を読んで、途中で不愉快だと思う人がいれば、どうか、その場で読むのをやめてください。もし、最後まで読んでくれた人がいれば、どうか、これをきっかけに考えてみてください。何を考えろというのではなく、いままで自分が考えなかったことを、これを機に考えてみてください。それでは、始めます。



銭ゲバを自称する僕は、なんでもお金に換えて考えます。会議で人を拘束する時間、出張の移動にかかる交通費と時間コスト、スタッフのコミュニケーション量が半分になると年間いくらの損失になるのか?とか。それでは質問、人の命の値段っていくらぐらいでしょうか。

僕はいつも一人頭4,500万円で計算しています。意外と安いですね。でも、まあ、こんなもんですよ。人の命なんて。

昔、僕にとってとても大切だったある人は 4,500万円を工面するために遺書を書いてどこかにいなくなってしまいました。たぶん死んでるでしょうけど、未だに死体は見つかっていません。死ねば保険金でもおりるとおもったのでしょうか。だとしたら浅知恵ですね。失踪は7年しないと死亡認定もされず、保険金もおりないのです。死ぬんだったら見つかるように死なないと。だからその死には何の意味もないのです。意味はないのだけれど「4,500万円のために一人の人間がいなくなった」という事実は変わることはありません。

それ以来、僕の中では、人ひとりの命の値段は4,500万円です。国から研究費が配分されると、すぐに「命」の単位に換算して考えます。一億三千万の予算だったら、人の命およそ3人分です。ほんとのところはわからないけれど、僕の頭の中の世界では、その予算を動かす税金を納めるために3人の人間が死んでいるのです。ちょっと矛盾しているようですが、働けば働くほど赤字になってしまって、結局そのために死んでしまうような、そんな生活をしている人でも、いや、むしろそういう生活している人ほど、たっぷり税金を払うということもあるのです。世の中一筋縄ではいかないのです。

僕たち国立大学で働く技術屋の仕事は、そういう人の命を燃料にして動いているんだと、僕はいつも、そんな窮屈なことを考えています。だからせめて、燃費を上げたいのです。3人の命を燃料にした研究なら、その結果、少なくとも3人の命を救うように。もっとたくさんの人を幸せにするように。たぶん、ただの自己満足なのですが、せめてそれを目標にしたいと思っています。

もし「予算を獲得する」ことが成果だと思っている研究者がいたら、たまには、その予算のもとになっている税金を払うために、自分の命を金に換えている人がいることも考えてあげてください。

たぶん、頭のいい研究者の人たちからみると、ばかな人生に見えるのかもしれません。でも、僕の生きてきた周りには、愚直なまでにまじめで、僕たち研究者を心から信頼してくれて、そのために自分の人生を犠牲にしてでも僕たちを支援してくれているような、そういう人がたくさんいました。僕には、そういう人がばかだとは思えません。

日本は意外と福祉制度が充実していて、いざとなれば生活補助で生きていけます。でも、やっぱり、どんな時でも、そういう支援からもれてしまうような、そういう生活って、あるのです。逃げ道があるのに、それに気付かないぐらい近くしか見えなくなるような、そういうつらさもあるのです。理屈はいろいろあるのでしょうが、つらいものは、つらいのです。

いたずらに予算を獲得することが成果だと思うのは、どうかやめてください。「余った予算を消化する」というような不潔な言葉は、どうか使わないでください。「自分たちが使わなければ他の人間が使うだけ」というような予算があって、そして、自分たちが本当はその予算が必要でないなら、どうかそのお金は使わないでください。みんながそうして使わなければ、最後にはきちんと必要な人に渡るはずです。そうならないかもしれないけれど、あなたが無駄につかってしまったら、その命は、そこで終わるのです。もし予算があまって、全然必要ないものを買うぐらいなら、どうか勇気をもって、その予算を返還してください。ブラックリストに載るかもしれませんが、人の命を浪費するよりはましです。

たくさんの税金を動かしている人たちは、どうかもっと、あなたたちの動かしているお金のことを好きになってあげてください。それは、「予算」という仕事の道具ではなくて、お金という形をした人の命だからです。予算を配分する前に、自分の大切な人が身を粉にして働いて払った税金を、本当にその人たちにあずけていいのかどうか、きちんと考えてください。そして、そのお金を誰かに預けたら、それがきちんと世の中をよくしていくかどうか、最後まで目をそらさないでください。

成果を報告する研究者の人たち。どうか、嘘はやめてください。ほんとは他より劣っている技術しかできていないのに、それをすごいことのように報告するのはやめてください。そんな嘘をついても、人の命は救われません。自分たちが一生懸命働いて、それでもその予算が無駄になってしまったら、その事実をきちんと受け止めてください。そして、次またがんばればいいのです。そのためにも、まず、事実を受け止めてください。

人の命は、お金には換えられません。でも、それが換えられてしまう世界もあるのです。僕たちは人の命を使って仕事をしているのです。

Joschi

2007年5月1日火曜日

研究の成果を評価するという話。もしくは、自分をどう捉えるかという事。

先日、ロフブロウ大学にいったおり、ヨハネス先輩[1] にいい事を教えてもらいました。ヒルシュのh 指数(Hirsch's H-index) [2] という研究者の評価数値です。

研究所や大学において誰か人を雇う時、もしくは誰か人に雇われるとき、みなさんはどのようにして人を評価しているでしょうか?僕の場合、基本的に「やる気」と「人となり」です。何せ僕のいるグループ(Applied Physics Letters (APL)に出した僕たち COGの OCT 論文[3]がそれですね。たとえば Optics Letters (OL) と APL を比べると、APLの方がインパクトファクターは高いのです。でも、OCT関係者はほとんど APL をチェックしてません。逆に、OL はみんなチェックしてます。だから、そのインパクトファクターと違って、OL のほうが APL よりも本当のインパクトも高いし、OCTの 論文を掲載するのも難しいのです。(ちなみに、Optics Express のほうが Optics Letters よりさらに難しいです。インパクトファクターは OL の方が高いけど…。)逆に、誰も見ないようなジャーナルになぜか重要な論文が出版されたりもします。たぶん、投稿時点で世間の先を行きすぎてたんでしょうね…。まあ、そんなこんなで、この「インパクトファクターの合計」も完璧な評価法とは程遠いと思うのです。

他に最近よく使われるのが、「論文の引用数」ですね。さっきのインパクトファクターは、いわば「ジャーナル全体の論文の引用数」(本当はもっと複雑ですが)なわけですが、それよりなにより、直接、評価対象の研究者の書いた論文が何回他の論文から引用されたかを見てみよう、というものです。これ、前の二つよりはずっといいですね。なにより、直接的です。「個人」を評価するわけだから「ジャーナル」という間接指標を介さないほうが、そりゃあ、いいんじゃないかと思います。ただ、この方法、さらに次の疑問を生むことになります。「論文の引用数を、どう評価するの?」ということです。

例えば、論文の引用数を合計するってのはどうでしょう?でも、これだと、1、2本ビッグヒットがあると、それだけで趨勢は決まってしまいます。コンスタントにきちんとした成果を出してるタイプの研究者は低く評価されるんですね。じゃあ、平均の論文引用数はどうか?これだと、同じぐらいの数引用数の多い論文を書いている二人がいて、そのうち一人が引用数の低い論文もいっぱい書いていると、なんと、論文書いてない方がより高く評価されることになるわけです。

で、こんな問題を解決すべく近年注目を集めているのがヒルシュの h 指数 です。この h 指数、非常に単純に、でもパワフルに研究者の成果を評価できる数値指標です。

「その研究者が公刊した論文のうち、被引用数がh以上であるものがh以上あることを満たすような数値」(日本語版 Wikipediaより)

これが h 指標の定義です。たとえば、あなたが 10 回以上引用されてる論文を 10 本以上出版していて、11回以上引用されてる論文を11本出版していなければあなたの h 指数は 10 ということです。単純です。単純だけれど、この h 指数、僕が今まで他の論文評価手法に対して持っていた不満に実に的確に応えてくれるのです。

博士課程の頃、そしてポスドクの頃、僕は「論文数」にこだわっていました。僕が博士をとった分野では「論文数」というのが一番一般的な成果指標だったからです。でも、この「論文数」どんなに稼いでも、世界に出ていくと全く通用しないんですね。もちろん、インパクトの高い論文を数だしてれば世界に通用するわけですが、僕の書いていたようなインパクトの低い論文では、どんなに出してもノイズレベルだったわけです。

で、僕の所属するグループ COG の立ち上げ以降はひたすら論文のインパクトにこだわりました。「インパクトファクター」ではなく、「インパクト」です。「みんながすごいと思う論文を関係者の目につくジャーナルに出版する、そして、インパクトの少ない論文は出さない」という方針です。これはそれなりにうまく行きました。実際、今までのところ、COG の論文出版ペースは、僕が「論文数」にこだわっていたころよりも上がっています。ただ、これ、だいぶ頭打ちになってきているのです。

まあ、技術屋というのはみんなマニアックなところありますから、COG のスタッフの面々、「論文の質」にこだわりだすと、ひたすら作りこみを始めるんですね。論文の。で、一本一本のインパクトは上がっていくのですが、だんだん論文数が頭打ちになっていくのです。

まあ、それでも、論文がひたすら高品質になっていく分にはかまいません。ところが最近は「論文の作りこみすぎ」が問題になりだしたのです。つまり、みんながインパクトの高い論文を狙うあまり、論文一本一本の内容量がインフレを起こしたり、書いている本人の品質評価基準が高くなりすぎてなかなか論文投稿できなかったり、というような問題が起こりだしたのです。いくら COG の目的が「技術開発とそれに従事できる人材育成」であるとはいえ、あくまでも僕たちは大学の中のグループ。やはり論文を出版する必要があります。なにより、論文を出版し続けていかないと面白い技術屋が COG に集まってくることもなくなりますから。そうなると本来の目的である「技術開発」も「人材育成」もうまくいかなくなります。そんなこんなでこの「論文数の頭打」最近、僕の悩みの種だったのです。

事が一人の問題であれば「そろそろ論文数にこだわってみようかな?」「こんどはインパクトかな?」とバランスをとりながら方針を調整することもできそうです。ところが、グループの各メンバー全てを的確なバランスで活発化させようとすると、これがなかなか難しいと思うのです。そのためには、たぶん、的確な指標がいるのです。h 指数は、そういう的確な指標になるのではないかと思います。この指標を最大化しようとしている限り、自然と上に書いたようなバランスを各人が自然にとっていくことになるからです。

評価指標というのは、とにかく大切です。それは評価指標によって人の評価が決まるからではありません。人が評価指標に基づいて動くからです。つまり、評価指標は文字通り人やグループの道「標」(みちしるべ)だと思うのです。

実は、正直な話をすると、最近僕自身、どんな論文を目指せばいいのか、道に迷いだしていました。ひたすらインパクトを狙っていると本当に新しくてリスクのあること出来ないし、かといって誰も読まない論文を量産する気にもなれませんでした。引用数にこだわろうと思ってみても、自分の尊敬する研究者にビッグヒットがなくて、自分が評価していない研究者に1、2本ビッグヒットがあったりすると気持はなえなえです。

h 指標は、そんな道に迷っていた僕に新しい指標を与えてくれました。論文のインパクトと出版数は、きっと両立するのです。でも今まで、それをどういう風にとらえて、これから先何を狙えばいいのか、それがわからなかったのです。h 指標でそれがすっきり見えてきた気がします。自分で自分を、自分が納得できるように定量評価できるようになったわけです。

今現在の僕の h 指標は 7。一年あたりの h 指標の伸び率 (m 値)は 1.0 です。でも、僕の近くにいて、僕がすごいと思ってる人たちには25、26とかいます。僕、まだまだですね。でも、進む道が見えてきてしまえば、自分がまだまだなこともなんとなく、先があるようで楽しい気分になってきます。論文数だ、引用数だ、h 指標だといっても、結局のところ、本当に必世なのは「自分が自分をきちんと評価するための指標」なのかもしれません。

Joschi

[1] ハーバード医科大学院(ハーバード大学医学部の Johannes F. de Boer さんのことです。)
[2] J. E. Hirsch, "An index to quantify an individual's scientific research output," PNAS 102, 16569-16572 (2005)
[3] Y. Yasuno, S. Makita, T. Endo, M. Itoh, T. Yatagai, M. Takahashi, C. Katada, and M. Mutoh, "Polarization-sensitive complex Fourier domain optical coherence tomography for Jones matrix imaging of biological samples," Appl. Phys. Lett. 85, 3023-3025 (2004).

[その他の参考ページ]
[4] h-index at Wikipedia