2007年12月10日月曜日

権力と支配の話、もしくは、無力な権力の話。

2001年の秋から、もう6年も前のことになるのですが、僕はドイツのストゥットガルト大学でコンフォーカル顕微鏡のプロジェクトに参加していました。そのおかげで、2002年のお正月、ちょうどヨーロッパの人たちがユーロ貨幣を使い始める瞬間をその場で見ることが出来たわけです。まあ、実を言うと、収集癖のある僕は、がんばって銀行にならんでユーロコインのスターターキットを手に入れたりしてたのですが…

 ユーロコインって、表側のデザインは各国共通なんです。「50セント」とか書いてあって。でも、裏側のデザインが全部の国で違うんですよ。コレクター心をメッキョ[1] くすぐります。で、やはり、今この瞬間にヨーロッパにいられる幸福に感謝するためにも「集めなきゃでしょ!」と思ったわけです。で、必死に集めたわけです。別に隣国まで遠征するわけじゃないですよ。ただ普通に日常生活を送っていて、買い物した時におつりをチェックするわけです。まだ集めてないコインがあるかどうか。で、びっくりしたんですが、なんと、ユーロ貨幣使用開始から2週間もすると、近所の国のコインが普通におつりに混じってくるようになるんですよ。シュトットガルトで。イタリアとかフランスのコインが。

コレクターとして仰天+興奮したのですが、それ以上に別の意味で仰天+興奮、いや、仰天×興奮!しました。ドイツとフランスなんて、つい最近まで何度も戦争やってるわけですよ。それが、今や、ユーロ使用開始後2週間でコインが行き来するぐらい近い存在になっているのです[2]。コインが行き来するって、貿易とかじゃないじゃないですか。「人」そのものが行き来するってことだから。

これはすごいことになった!と思ったわけです。実際にはユーロ貨幣流通の3年前から、ヨーロッパでは商取引はユーロベースで動いていたわけですが、実際に目の前に「ユーロコイン」「ユーロ紙幣」という通貨が実態として現れると人々の気持ちが違います。実際、その時僕の周りに居た人たちはみんな興奮してたし。自分たちのおじいちゃんどうしが戦争をしていた国に遊びに行くのに、パスポートも両替もいらない。その体験はすごいインパクトですよ。こりゃ、本格的にヨーロッパは一つになるな、と、そう思いました。実際、その直後には「EU憲法」なんて話も出て来ることになったわけですし。

 こりゃもう、アジアもうかうかしてられない!と思いました。僕らもなにかしなくちゃ!と。国益とかなんとか、一国のレベルで考えてる場合じゃないでしょ!アジアの通貨統一?しなきゃまずいでしょ。ヨーロッパとアメリカの経済に呑み込まれちゃいますよ。アジアは。国と国がいがみあってる場合じゃないでしょ!政治協力?やらなきゃ!やらなきゃ!

今からちょうど6年前、こういう風に感じたのです。でも、これ、本当にそうなんでしょうか。

 ここでちょっと話を変えます。

 最近、仕事の関係で、いろんな業種の人と会って話す機会があります。僕らのようなアカデミックポジションにいるエンジニア、産業界に身を置くエンジニア、大学の医局の中のお医者さん、工学部の学生、医学部の学生、メーカーの営業系の人たち、企画系の人たち、契約、法務、財務の人たち、大学を支える執行部の人たち、本部の人たち。それぞれがそれぞれ異なった世界で異なったヒエラルキーに属して生きています。(少なくとも僕にはそう見えます)。

6、7年前。僕が博士課程の学生だった頃、僕は、日本の工学アカデミズムの、しかも「光学」というヒエラルキーしか知りませんでした。で、「出世っていうのは、ヒエラルキーのピラミッドを登っていくことなのかなあ」と思っていたわけです。で、博士をとって、まったく別の国で研究プロジェクトに参加してみて、いままで知らなかったことに気付いたのです。たとえば、日本の光学の世界で大先生みたいに言われていて、無限の政治力を手にしているような人でも、例えばドイツの光学界では、何の権力も持っていません。当然と言えば当然ですが。日本が技術的に遅れているとか、そういう話ではないですよ。単純に権力の話。なんか、どうやら、ヒエラルキーって、いっぱいあるんですよ。並列に。同じようなヒエラルキーがわんさと。

 でも、これって、ちょっと考えると、変じゃないですか?ヒエラルキーって、頂点が一つだからヒエラルキーなんだと思うんですよ。頂点が一つだからヒエラルキーを『登る』ことが出来るというか。それがいくつもあったら、すでにトップもなにも無いじゃないですが。ヒエラルキーAのトップとヒエラルキーBのトップって、どっちが上の立場なの?みたいに。

 かっこよく言えば、この事に気付いた(実感した)ことは、物の見方の次元の超越だったんだと思います。今までは一枚の紙の上にヒエラルキーの図を描いて、その「上」を目指そうとしていた。そんな人が、机の上に、そのヒエラルキー図を何枚も、しかも、いろんな方向を向けて並べられて、で、それを上から眺めているような。で、聞かれるんですよ「これ、どっちが上だと思う?」って。上もくそもないでしょう。だって、みんな平らな机の上の話。ヒエラルキーAの「上」は「右」向いてるし、ヒエラルキーBの「上」は「左」向いてるわけです。それは、もはや「右」と「左」であって、「上」でも「下」でも無いわけです。しいて言えば、それを上から俯瞰している自分が「上」?みたいな感じです[3]。

 この着想を得た瞬間、「自分は無敵だ!」と思いました。いや、今でも思っています。だって、上も下もなければ、勝ちも負けもないわけで。負けたくても負けられない。生涯負けられない=無敵ですわ[4]。まあ、そこから逆に、友人をして「出世街道を逆走している」という僕のキャリアがスタートするわけですが。でも、自分としては逆走るつもりはありません。自分が自分で決めた「上」という相対的な場所をめざして進んでいるつもりです。(まあ、よくその「上」の場所が変わるのは問題かもしれませんが…)

 でも、僕の周りを見ていると、「ヒエラルキーの頂点」をめざしている人って、結構多いんですよ。優秀な人に特に多いように感じます[5]。ヒエラルキーの頂点って何があるんでしょうか?一つは、そこに登ってみないと見えない景色というのが、あると思います。でも、それは、ヒエラルキーを机に並べて眺めてしまった時点で、意味がなくなってしまうものだとは思うのですが。でも、まあ、一回ためして見ないとわからないものなのかもしれません。で、もう一つは、いわゆる「権力」というものなのかなあ、と思うのです。

 「権力」って、何なんでしょうか?たとえば、気に入らない人間を「干す」ことが出来たら、それは権力ってことでしょうか?指先を動かすだけで人が動けば、それが権力?まあ、僕自身は、そうじゃないかなあ、と考えてきました。でも、実際にそんなことってあるのでしょうか?あるヒエラルキーのトップは、気に入らない人間を、そのヒエラルキーからはじき出す(干す)ことが出来るかもしれません。で?多分その人は別のヒエラルキー移るでしょう。それだけ。例えば僕が光学アカデミズムから干されたら眼科アカデミズムに移るし、そこでも干されたら、産業界のヒエラルキーに移ることもできる。そこでも干されたら…コンビニでバイトしながら「バイトから社長」をめざせばいいのでは?と、思ったりするわけです。生きてくだけなら、なんとでもなるでしょ。自分の目指す「上」は自分で好きに決めちゃえるんだから。

立ち悪いですね。こういう奴って、干しようがないですよ。まさに無敵。そして、この程度の発送の転換をするだけで、権力やヒエラルキーは崩壊してしまうのではないか、と。そういう風に思うのです。

 でも実際、歴史的に、極めて大きなヒエラルキーが築かれた時期は、確かにあります。まだ、ほんの少し前の話。僕たちのおじいちゃんどうしが戦争をしていたころの話です。日本もドイツも、アジアやヨーロッパに巨大なヒエラルキーを作ろうとしました。たくさんの人たちが殺されたし、いまでもそれで悲しんでいる人、苦しんでいる人がいます。でも、それで実際に、永遠に続く巨大なヒエラルキーは築かれたのでしょうか?いや、その巨大なヒエラルキーって、一体なんだったのでしょうか?机の上の紙の例えに戻るなら、それは、A0ぐらいの大きさの紙にかかれた、死ぬほど大きなヒエラルキーなのでしょう。でも、どんな大きなヒエラルキーでも、それを上から眺めることによって、急に色あせてしまいます。人は、どんなことをしても、人を支配することはできない。と、思うのです。

 僕は、権力が好きです。別の言い方をすれば、影響力というか。そういうのを手に入れるのが大好きなのです。それが、まあ、ある意味僕のモチベーションになっています。でも、こうやって考えてくると、「権力」や「ヒエラルキー」は急速に色あせてしまう。でも、僕の考えている権力、「僕の好きな権力」は色あせないんですね。なんか、ヒエラルキーを超越した権力っていうか。それって一体、なんなのでしょうか。

 また、ちょっと話がかわります。今いっしょに仕事をしているお医者さんの中に、かなり変わった人がいるのです。どう変わっているかと言うと「生体コヒーレンス」という概念に熱中しているんですね。「生体コヒーレンス」。聞いたことあります?僕は、その人に会って始めて聞きました。まあ、人が生物として機能するメカニズムを理解するためのアイディアの一つなんだと思います。僕もよくわかってないですけど、どうやら、「体の各部分、各細胞は、互いにゆるく何か共通の『場』のようなものの影響を受けている」ということらしいです。

 僕なりに言い換えてみると「体を構成する細胞は、いろんな話を聞きながら、なんとなく、みんながその気になって、ちょっとずつ協力することで全体として大きな仕事をする」みたいなことじゃないかなあ、と思います。つまり、細胞一個一個は、「脳に命令されてる」のではなくて、基本的に、好き勝手やってるわけです。で、そのなかで、たまに、ちょっと周りにあわせて動いてみたりする。細胞本人が意識するしないにかかわらず。でも、そのちょっとの動きのタイミングがまわりとそろったりすると、結果として何か大きい仕事ができる。と。そういうことじゃないかなあ、と思います。さらに思うのは、脳自信も、実は、自分の出した指令でなにが起こるのか、わかってないんじゃないかなあ、ということです。だって、脳にできるのは、なんとなくな「場」(雰囲気?)をちょっと変えてみることだけなわけですから。さらにいえば、脳がどう判断するのか、ってことすら、脳以外の細胞たちが分泌したホルモンで、なんとな~く揺らいでいるわけです。

 実は、この「なんとな~く」って僕の考えている権力そのものじゃないかなあ、と思います。

ちょっとずれますが、僕の権力志向の原点は、たんなる「目立ちたがり屋」じゃないかと思うのです。人目につきたい、人に話を聞いて欲しい。しゃべって、しゃべって、しゃべって、しゃべりまくって。実際、子供の頃、「こんな良くしゃべる子供、将来どんな大人になるの?」と、母親に言われてしまったこともあります。(こんな大人になりました♪)

 そして、目立って、しゃべって、逆に、いろんな人の話しも聞いて。そうこうしているうちに、たくさんの人たちが、僕の考えていることに、なんとな~く、影響を受けるのじゃないかと、そして、僕自身も、たくさんの人たちから、なんとな~く影響を受けてるのじゃないかと。そして、その なんとな~く の影響そのものが、実は権力ではないかと思うのです。

 もちろん、この方法では人を支配することはできません。でも、なんとな~く影響を受けたり与えたりってのは、実は、数少ない、ヒエラルキーを超越した力なんじゃないかな、と思うのです。

 また話は変わります。先週、と、ある用事で韓国に行きました。そこで光州科学技術院(GIST)の学生達(僕と同世代です)と飲んで話して話して話す機会がありました。たくさんの学生たちが僕と同じ分野で研究をしています。ゆっくり話をしたのは今回が初めてだったけれど、いままでも実は、論文や学会で互いのやってる仕事、技術を知ってるんですね。で、互いの作った技術を真似したり真似されたり、肯定したり否定したりしながら、みんなで「いい光断層装置」を作っていくわけです。それまで彼らと多くを話したことはなかったけれど、僕たちはすでに互いに影響しあっていたわけです。「論文」という「言葉」を通じて。

僕たちCOGがしてきた仕事は彼らに影響を与えていたし、彼らの仕事は僕たちに影響を与えていました。それは技術だけに限ったことではなくて。自分たちがどの分野を学ぶかとか、どの道に進むかとか、結局は、どう生きていくのか、とか。僕たちは住んでいる国も違うし、互いに違うヒエラルキーの中にいるはずなのに、影響しあっていた、と、いうことだと思います。

こなんな「なんとな~く」な影響力では誰かに命令することもできないし、誰かを意のままに動かすこともできないし、それどころか、自分が逆に影響を受けちゃったりもするのですが、でも、それこそが、「僕の好きな権力」なのかなあ、と、そういう風に思うのです。

 そろそろ散らかした話をつなげて行きましょう。

アジアの「経済・通貨の統一」とか「統一政府の樹立」って、ほんとに必要なのでしょうか?必要なのかもしれませんし、必要ないのかもしれません。

 たとえば、じゃあ、統一政府を樹立したとして、その次にあるのは?言語の統一?生活様式の統一?愛国心の統一?それって、どこかで聞いたことありますよ。ついこないだまで、僕の生まれた、そして、いま住んでいる国がやろうとしていたことです。でも、それって、結局みんなを幸せにしたのでしょうか?まあ、普通に考えればしてないでしょ。僕自身も、してないと思います。実際、未だに、その時代に日本がしたことのせいで苦しんでいる人はたくさんいます。

 じゃあ、僕たちは、言葉や生活を共有することはできないのでしょうか?

先週、僕が光州科学院の同世代の人たちと呑んでた時、別に言葉の不自由感じませんでしたよ。だって、みんな英語しゃべれるし。学生の中には、日本語知ってる人もいたし、僕も子供の頃、ちょっとだけ韓国語勉強したことあるし。

食事にも生活にも困りませんでしたよ。普段から日本で韓国料理食べること多いし。韓国でも日本でもいたるところにロッテリアあるし。コンビにだってあるし。同じようなものを売ってるし。呑んで盛り上がってくると、同じアニメの話に花が咲くし。なにより、今のままでだって、僕たちはエンジニアとして、同じ技術の基盤を共有して対等に話をすることができます。なんか、もう、これでよくね?

 繰り返しになりますが、通貨の統一とか、統一政府の樹立とか、必要で無いかもしれないし、必要なのかもしれません。でも、それは、結局、それぞれの人と人の互いの影響と信頼が発展した結果でしかないのではないでしょうか。ヨーロッパにユーロが導入されたから、ドイツとフランスが和解したわけではないでしょう。互いにたくさんいろんなことを感じて、話し合って、影響を受けあって、それで初めて「俺ら、通貨統合してもよくね?」となったんじゃないかなあと、思います。「フランスの中央銀行とドイツの中央銀行、統一してよくね?ヨーロッパの統一中央銀行、別にフランクフルト(ドイツ)でよくね?」と[6]。

 将来、アジアは、互いにもっと近づいていくと思います。でも、それは、どこか、だれか、強い国や人が、力ずくでやることではないのではないかと思います。たとえそれが正義感なんかからくるのだとしても。ヒエラルキーの中で発せられた言葉は、そのヒエラルキーの中でしか響かない、ということかなあと思います。

じゃあ、どうしてアジアの国は、人は、互いに近づいていくのか?それは、「僕がそういうから」なのです。

エンジニアとして、いろんな国のエンジニアとたくさん話をして僕が思うこと、それは「アジアの人たちは、少なくとも、僕たちアジアのエンジニアの間の距離は、近い将来にもっともっと近づく」ということです。確実に近づきます。もっと近づきます。もっと近づく、もっと近づく、もっと近づく、もっと近づく。ね、なんとなく、そうなる気がしてきたでしょ?根拠なんてなにもなくても。それが僕の持っている権力。

なんとな~く、人を動かすことのできる力です。

2007/12/09
Joschi

最後に:かつて、この「なんとな~くな権力」を、意図的に利用して巨大なヒエラルキーを作った国、作った人たちがいました。真理は、それを手に入れようと組織を作った時点で真理ではなくなってしまう。クリシュナムルティーも言っていました。なんとな~くな権力は、無力だからこそ権力なのです。

[1] 三重(すくなくとも津)の子供言葉で「非常に」の意味。個人的に勝手に「滅去」の字をあてたりしています。(意外と本当に仏教の経典かなにかが語源なのかも…)
[2] まあ、それぐらい近い存在だから何度も戦争したのでしょうが…
[3] 実際は、この三次元空間での「上」を内包する四次元空間を仮定した時点で、この「三次元内部の上」の概念も消失してしまうわけですが。この入れ子状の相対的な構造が、また、面白く、そしてなんだか幸せな気分にさせてくれますね。
[4] なんか阿Q聖伝みたいですね…
[5] この人たち、ほんとは気付いてるんだろうなー、と思うこともあります。なんせ、ヒエラルキーの相対化なんて、僕でも気付くことですから。でも、まあ、頭のいい人たちにとっては暇つぶし程度なのかもしれません。ヒエラルキーの「はしっこ」をめざすなんて。僕がこのブログを書いてるようなもんですね。(←実は、この一言、今回の記事の本質なのですが、それはこの記事を最後まで読んで感じてみてください。)
[6] まあ、当然、細かい権力バランスとか、経済的な理由とかあるのでしょうが、でも、意外とそれって、人の気持ちの流れのつじつまを合わせるための技術にしかすぎない気がします。だって、経済のことを考えるなら、なんで、ドイツってあそこまで劇的で、負担の大きい再統一を行ったのでしょうか。