2012年6月9日土曜日

縦糸と横糸の話: 工学と工業の関係


私は大学の工学部(正確には理国学群応用理工学類)で働いています。と、同時に、自分自身の大学人としてのキャリのかなり初期から、様々なメーカーの開発プロジェクトに参加してきました。私が大学にいて、そして、同時にメーカーとも一緒に働いてきたこの10年の間に、日本の工業をとりまく状況、特に世界の中での日本の工業の位置づけは大きく変わってしまった気がします。より明確に表現すると、日本の工業の世界的な存在感は、この10年、5年の間に急激に低下している、というのが私の感想です。

どうしてこのような状況になってしまったのか、それを考えているうちに、まず、大学の工学部の役割について考えるようになりました。そして、それを明確にするためには、工業と工学の関係、また、産業とアカデミアの関係について考えることは避けられないと感じるようになりました。そして、それらに答えを出すためには、まず、「いったい工学とはなんなのか」という根本的な問題、物事の定義の問題を強く意識する必要があると感じるようになりました。

大学で工学を教えていると、よく「その研究は応用的すぎて、わざわざ大学でやることではない(メーカーでやるべきことだ)」という意見や、「そこまで技術が完成しているのならば、いっそ起業してはどうですか?」という意見を聞くことがあります。このことが象徴するように、一般的には、大学の理学部・工学部、メーカーにおける研究・開発の関係は、「応用度」≒「実用化までの距離」という順に、次のように並んでいると考えられているように感じます。

理学部 → 工学部 → メーカー研究 → メーカー開発

しかし、本当にそうなのでしょうか。この「基礎から応用へ」と「アカデミアから産業へ」を対比するモデルは、本当に検証されたモデルなのでしょうか。私は、そのことそのものに疑問を感じるようになったのです。もし、社会の生産システム設計の根本となるモデルが間違っているとしたら、その社会が効率的に生産的になることはありません。

産業とアカデミアの関係、そして、社会における「工学という学問の位置づけ」、それらを明確にすることが、産業と教育を適切に結びつける鍵であり、そして、いつのまにかボタンを掛けちがってしまった今の日本の教育・産業を立て直す鍵なのではないかと思います。そして、それを理解するためのキーワードの一つが「工学」という言葉の定義なのではないかと思うのです。

現時点ではまだ中間的な思索の段階でしかありませんが、きょうはひとまず、ここまでの私の考えをまとめてみたいと思います。



まず最初に注目したいのは、「工学」と「工業」の違いです。とかくこの二者は混同されがちですが、実際には階層(次元)がまったく異なる概念なのではないかと考えています。実際に、日本語では近しい言葉が当てられている工学と工業ですが、英語では工学は Engineering Science、工業は Industry とまったく異なった言葉が当てられます。

同時に「工学」と「理学の」(Natural Science) に関してもその違いを意識してみましょう。 そうすると、いままで見えてこなかった社会システムのフレームワークが、少しですが、見えてきます。

まずは、工学と理学の違いについて考えてみたいと思います。一般に広く受け入れられている考え方に「より基礎的なものが理学であり、より応用的なものが工学である」というものがあります。そして、この考え方は、より単純化されて「理学の延長線上に工学がある」という「一直線上に2つの学問が前後してならんでいる」という概念で捉えられることが多いようです。(特に、工学と物理・化学のあいだではそのように考えられるのではないでしょうか。)

しかし、私はこの考え方が日本における「工学部」のありかたを誤らせたのそもそもの原因ではないかと考えています。(言い忘れましたが、私は今の日本の社会システムにおける工学部のあり方は最適ではないと考えています。工学部の大学人は無能であるとか、アメリカに負けているとかいうことではなく、日本の社会システム全体における工学部と大学理学部・産業・工業の相対的な位置関係が最適ではない、という意味です。)

もうすこし具体的な例で理学と工学の違いを見てみましょう。

例えば、電磁気学(物理学)と(古典的な)電気回路学(工学)を考えてみてください。
古典的な電気回路の考え方では、電流とはプラス極からマイナス極に流れる「仮想的な流れ」です。一方、電磁気学では、電流とはマイナス極からプラス極に流れる電子の流れです。電磁気学における電子とは「実在する」負の電荷を持った粒子です。一方、古典的な電気回路における電流とは、電気回路の振る舞いを記述し、制御するために便利な「仮想的な流れ」、つまり、概念です。
よく、高校の物理の授業などで「電流の正体は電子の流れである」と教えることがあります。これは、物理学(電磁気学)としては正解ですが、工学(電気回路学)としては必ずしも正しくありません。工学(電気回路学)における電流とは「正極から負極に流れているなにか」という概念そのものなのであり、その物理的な実態とは、本質的には無関係なのです。そして、その概念的・仮想的な電流という「なにか」の振る舞いを記述・制御するためにオームの法則やファン・テプナンの定理など様々なルールがつくられました。
つまり、工学である古典電気回路学は、まず概念として「電流」を定義し、その振舞を理解・制御するためのフレームワークを構築することで発達してきた、と考えることができます。ここでは、「電流が実際何なのか」を知る必要はありませんし、そもそも「電流」が実在する物理現象である必要もありません。(なにより、この電流と電子の流れという例では、これらの流れる方向が逆、という段階で世紀の大間違いです。)

このような例は光学においても見られます。物理(光物理)では「光」はフォトンという粒子であり、同時に波でもあります。一方、この「光」と混同されがちなものとして「光線」というものがあります。これらは、日本語で書くと非常に似た言葉になりますが、英語では light(光)とray(光線)と、まったく異なった概念であることがわかります。「光線」とは、工学の一つである古典的な光学における概念であり、アイコナール方程式と呼ばれる微分方程式の解という数学的な概念でしかありません。この光線は定義からして光とは異なったものですが、光という物理的な存在によって起こる現象の多くは光線という概念で非常にうまく説明でき、また、利用することができます(註1)。

このように見ていくと、工学とは「背景にある原理(たとえば物理的・化学的原理)とは無関係に、ある現象を統一した概念で記述し、それによって、その現象を制御・利用することを可能たらしめる理論体系」である、といえるのではないかと思います。さらに、ここでいう「ある現象」とは、必ずしも物理的・化学的な現象だけではありません。人の作った機械装置の振舞、人の集団の振舞、さらにはお金の流れなども含まれます。そして、この対象とする現象によって「システム工学」、「社会工学」、「金融工学」などの名前がつくのではないでしょうか。このように様々な細分野のある工学ですが、それらすべてにおいて、本質は、対象を体系化された手法で記述・制御することではないかと思います。

それに対し、理学とは(たとえば)物理的・化学的な現象のメカニズムを「解明」することを本質とした学問です。このように考えると理学とは「実在する事象(物理現象など)を対象相とする学問である」のに対し、工学とは「対象を限定せず、さまざまな対象を記述・制御する『概念と方法』を作りだし、その体系化を試みる学問」といえるのではないでしょうか。こう考えると、いわば、理学が縦糸の学問であるのに対して、工学は横糸の学問、ということになります。

そして、工学という横糸と理学という縦糸で作られた面の一つが「工業」ではないでしょうか。仮に、工学と理学それぞれを世界を作る1次元的な要素であると考えましょう。そして、それらはさらに「互いに直行する1次元的な要素」ということになるのではないかと思います。そして、「工業」とは、それらによって作られる2次元的な概念ということではないでしょうか。

このように考えると、今の大学が(そしておそらく社会全体が)暗黙のうちに定義している「理学の応用度をあげていくと工学」という考え方では、所詮工学は「応用的な理学」にしかならず、それはやはり、縦糸でしかありません。縦糸だけをどれだけあつめても、縦糸同士がつながらず面として工業は発達しないことになります。(次元の例えで言えば、互いに平行な1次元である理学と(今日の大学の定義する)工学では、2次元の概念である工業を規定することはできません。平行な直線二本では、面は定義できないのです。

そして、これがまさに、日本の工業力の低下の遠因ではないかと考えています。

このように考えていくと、「工学」が行うべきことも自然と見えてくることになります。工学の役割、それは「方法を体系化していく」ということです。大学という組織の目的を加味してさらにいえば「大学工学部の役割は、「方法」を理論体系化して容易に再利用可能にする」ことではないかと考えています。そして、教育機関としての工学部の役割は、その理論体系を利用できる人材を育成する、ということになるのではないでしょうか。

余談ですが、私は、大学の工学部の教員であるにもかかわらず、技術戦略やグループ運営、マネージメントに関する意見を求められることや、それに関する講演を頼まれることがあります。そのような話をした後、よく、「どこでそういうことを勉強したんですか」と聞かれることがあります。ただ、私の感覚では「物を作る方法論(つまり工学)を突き詰めて考えていたら、戦略も、運営も、マネージメントも見えてきた」という気がします。実際、私自身、OCT装置の構成を検討する際、画像処理アルゴリズムを作る際、プロジェクト管理をする際など、あらゆる場面でほとんど同じものの考え方をします。

たとえば、光断層装置の制御の際に「ガルバノミラー(電圧可動ミラー)にかける電圧の高周波成分を予めフィルターで除去することで、機械的な共振ノイズを減少させる」ことがあります。一方、プロジェクトの進捗管理の際に、技術スタッフに対して「新たに技術課題(問題)を見つけても、すぐに手を付けずに、は一旦週一回の定例ミーティングで検討してから、対応するかどうかを決定する」というポリシー設定することがあります。これらはどちらも「装置(組織)の構成要素(ガルバノミラー・人)の対応できない速さで変化する状況(ノイズ・技術課題)に対しては、わざと反応速度を遅くすることで、無意味な行ったり来たりを回避する」という、まったく同じ方法論から得られる結論です。そして、この体系化された方法論の集合が「工学」という学問なのではないかと考えています。

物を作る、ということは、一見応用度が高く専門化された狭い分野に見えます。しかし、一つの目的のために収束し、先鋭化された理論は、その後より広くあらゆる分野に応用がききます。工学者としてこれを表現するならば次のようになるのです。

光には、一旦空間的に収束すると、それによって、その後の進行方向が発散する、という本質的な不確定性があります。同様に、ある信号は自体が強く局在すればするほどそのスペクトルは広がります。仏教的な世界観では、自分自身の中の小さな世界は、その小さな極限において、広大な世界そのものとつながっていきます。それらと同じように、ある分野に先鋭化された方法論は、すべての分野に適応可能になると、考えています。


[註1] これらの電流と電子の流れの例、光線と光の例では、実際には物理現象でる「電子」や「光」と概念である「電流」や「光線」を厳密に結びつけることが可能です。例えば、電流は単位時間にある面を通過した電子の個数(電荷量)ですし、光線は波長無限小の光の振る舞い、です。ただし、今回の議論では、電流や光線の概念が、これらの物理的に正確な描写とは異なった動機で作られたことにが重要になります。

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