2007年11月26日月曜日

カメとアリ vs ウサギとキリギリス

最近また、ジョギングを始めました。仕事柄、普通に生活していると全く体を動かさないんです。で、なんか最近、あからさまに体力が落ちてきて、仕事の持久力もつられて落ちてきて、どうしもなくなってきたんですね。で、まあ、このままでは、やばい。と。

昔は毎日走ってたんですよ。なんとなく。まあ、若かったんでしょうね。元気が有り余っていたというか。元気は有り余ってるのに、何していいかわかんなかったし。まあ、暇にまかせてぐるぐるぐるぐるやっているハムスターみたいなもんです。

で、一月ほど前にジョギングを再開して、それからしばらくして気付いたんです。ジーンズがきつくなってきたんですよ。ゆるくじゃなくて。きつく。

でも、ウェストが、じゃないですよ。ふくらはぎのところです。ジーンズを脱ごうとすると、引っかかるんです。ふくらはぎに。太くなってるんですね。そう、そういえば、そうなんですよ。思い返してみると、昔、毎日走ってたころも、ふくらはぎ、めちゃめちゃ太かったんです。

ほら、ガンダム(初代)の足って、ふくらはぎの後ろに、ぼこっ!となんかついてるじゃないですか。プラモ作ったことのある人は知ってると思うんですが。なんか、ついてるんですよ。ぼこっと。あれ、筋肉なんですね。毎日てくてく走ってると、ああいう風に、ぼこってつくんですよ。みんなで温泉に行ったりすると「安野、そのふくらはぎ、おかしくねえ?」って言われるくらい、ついてたんです。昔は。他には筋肉ついてないのに、ふくらはぎと太ももだけ。

そんなふくらはぎも、今の怠惰な生活の中でいつの間にか、ほっそりした普通のふくらはぎになっていたわけです。

でも、最近、ジョギングを再開して、また、ぼこっとなってきたんですよ。ガンダム脚。別に筋トレも何もやってなくて、ただ、毎日淡々と(しかもかなりスローペースで)走ってるだけなんですが。でも、まあ、仕事の忙しかった日も、疲れてる日も、出張帰りも、一杯呑むのを我慢して帰ってジョギング。それからやっと、発泡酒(糖質オフ)です。

別にすごいことはしてないんだけど、毎日毎日やってるわけです。ばかの一つ覚えみたいに。

全然話は変わるのですが、今、出張にきてます。なんか、お医者さんの学会。この学会、自分の中ではかなり実りの多いものでした。最近行き詰まりを感じていた学会パフォーマンスも突破口が見えてきました。そしてなにより、ここ1, 2年、ずっと感じ続けていた、特にこの春あたりから強く感じ続けていた違和感に、かなり劇的な形で回答がでました。なんか、「気付いた」んですね。答えは前から目の前にあったのに、ずっと見えていなくて、それに気付いた、という感じです。

なんか、まあ、どってことはないのですよ。でも、なんか、2年に一回ぐらいあるんですね。こういう事が。「転機」というか、「小悟」というか。悩みの袋小路からの脱出!みたいな。まあ、こうやって袋小路からでてきても、また、すぐに別の袋小路にはまるだけなんですが。それにしても、やっぱり、気持ちのいいものです。なんか、答えに気付いたとたんに、世の中の全てが新しく見えるんですね。なんか、宗教みたいですけど。別に、宗教ではないです。自分、普通に、信仰心の極めて薄い仏教徒ですから。

何に気付いたのか。まあ、うん。非常に説明しにくいのですが、なんとなく、書いてみます。

アリとキリギリスってあるじゃないですか。ウサギとカメでもいいですけど。子供のころに、みんな何度か聞かされた話だと思います。まあ、細かいストーリーの違いはあるけど、どっちの話も「こつこつやってる奴が最後は成功する」って話。これ、子供の頃聞かされた頃にはなんの疑問も持たないんですね。絶対的な正解、という気がするんです。

でも、絶対的な正解、なんてないんですね。大人になってきて、いろんなことがあると、何事にも例外があることに気付くわけです。で、いままで絶対的な正解だと思ってたことが実はそうじゃない、ということに気付くこともあります。で、一つ一つそういう絶対性を否定して、ちょっとづつ頭が良くなっていくわけです。

その「絶対性の解体」、時には行過ぎることって、あるんじゃないでしょうか?頭良すぎる人(正直な表現をすれば中途半端に頭のいい人)に限って、そういうの全部解体して、理解したつもりになってるんじゃないかと。

小学校高学年とか、中学校ぐらいになってくると「要領」という言葉を良くきくようになります。親とか先生とかに言われたりするんでしょうね。「もっと要領よくやりなさい」とか「あの子は一生懸命やってるのに要領が悪いから成績が伸びない」とか。で、高校受験、大学受験なんか、まさに要領競争です。限られた時間で要領よくいろんな知識を手に入れていく。そういう競争ですね。(ちなみに、これ、「知恵」ではなく「知識」ってところ、一つのポイントだと思うのですが、それは、また、そのうち書きます。いつになるかわからないけど)

子供の頃は、アリとかカメとか、要領は悪いけど一生懸命やってたやつが偉かったんですよ。それが、なんか、いつの間にかキリギリスとかウサギとか、そういう要領のいい奴が偉いみたいになっちゃってるんですね。不思議と。ここまで急激な価値観の転換。急に言われれば「え!?昨日といってたことちがうじゃん!」と思うと思うのです。でも、何年もかけてじっくりすりかえられると、気付かないうちに、180度価値観がかわってしまうのだと、そう思うわけです。

子供にはこつこつやれ、大人は要領よくやれ、てなわけです。でも、どこからが子供で、どこからが大人なのでしょうか?別の言いかたすれば、子供ってのは誰からみた子供なのでしょうか?

アリとキリギリスも、ウサギとカメも、こつこつやらないと将来困るよ、って話なわけです。て、ことは、将来のあるやつ=子供、将来のないやつ=大人。ってことだと思うのです。て、ことは…まあ、結局、自分には未来がある!と思ってるうちは、こつこつやるしかないのではないか、と。そんな風におもうのです。

別の例を一つ。M&Aってあるじゃないですか。企業の合併+吸収。まあ、最近はメーカーでもなんでも、無い技術は買ってくればいい、てな感じですね。

実は、ここ数年、大学の研究グループでも、そういう考え方はありなのではないか、と考えていたのです。まあ、技術を買ってくるというよりは、予算を集めて、ごっそり技術のある奴を引き抜いてくるわけですね。それこそグループごと。わりとうまく行くんじゃないか、と。

で、まあ、こそこそいろいろ試してみたんですが…うまくいかないんですよ。自分たちもうまくいかなかったし、他の大学やメーカーがやってるの見ててもダメですね。まず、引き抜くべき人がいません。たいてい、はずれしか見つからなくて終わりです。下手にネームバリューがあるところがそうやって技術屋集めると、さらに悲惨ですね。一応人はあつめられんですが、まあ、そうやって名前であつまる技術屋って、モチベーションも低いし、技術も××なことが多いし。まあ、本当は違うのかもしれませんが、なんか、俺から見ると、一生懸命やってる人は居ないように見えます。全員ではないんでしょうが。集めたほうは人材を集めたつもりなんだろうけど、こっちから見てると、逆に、無知をいいことにたかられてるように見えます。人間って、結構人間を見る目があるのですよ。

結局、いい仕事をしようと思ったら、近道なんてないんですね。自分の手でこつこつこつこつ、積み重ねていかないと。

またちょっと別の話。最近、僕のいるCOGという研究グループも一部のニッチな業界で名が知られてきたようで、たまに、新しいデバイスの評価を頼まれたりもします。こないだも、評価を頼まれた新しいデバイスを使ったOCT装置を作ってました。まず、とりあえず眼底がとれるようになって、感度も 93 dB でてる。そこでやめちゃったんですね。装置の作成を。で、担当者は論文を書き始めたわけです。

でも、理論的に今の構成で出る感度を計算すると、実は、100dB なんですよ。でも、93 dBでやめちゃった。すごくロスがあるのに。-7 dB もロスがあるんですよ。どこかに。でも、突き止めない。

これ、まずいと思うんですよね。だって、こういう仕事して、自分たちの手元に残るのは「感度 100 dB 出るだけの性能を持ったデバイスを使って、確実に 100 dB 出すOCT装置を作る」って技術だけです。それは、自分たちがこつこつ積み重ねて手に入れてきた技術です。人に教えてあげることはできるけれど、その技術を作った、という積み重ねは決して誰に取られることも無いし、どこかに消えてなくなることもありません。

新しいデバイスを使えば、そりゃ、古いデバイスに比べて性能は上がるんですよ。論文も書けるかもしれません。でも、それって、僕たちの成果じゃないでしょう。デバイス作った人たちの成果です。デバイス作った人たちは、こつこつ積み重ねてそのデバイスを作ったのです。だから、そのデバイス作った人たちは、そのデバイスを引っさげて、この先の未来、なんだって出来ます。でも、「感度 100 dB 出せる装置をつかって感度 93 dB の装置を作る技術しか持っていない」僕たちには、未来なんてないのです。

アリが一生懸命デバイスを作るのを、笑いながら見てたキリギリスは、冬になったらどうしようもなくなってしまうのです。

いやですよ。そんなの。で、今はなんとか100 dB だすようにがんばってます。論文になってしまえば、「感度を計測したところ 93 dB であった」と書くか「感度を計測したところ 100 dBであった」と書くかだけの違いです。でも、それが、グループが一歩、一歩だけですが、でも確実に一歩、先に進むかどうか、ということなんだと思います。

またまたちょっと違う話。高知大学に「室戸完歩」というイベントがあります。24時間以上かけて、高知市の高知大学から、室戸岬まで、およそ 100 Km、ただひたすら歩くのです。徒歩で。

10年ほど前、当時高知大学にいた友人に誘われて、僕も歩いたことがあります。ひたすら歩いてると、だんだん絶望してきます。どれだけあるいても、室戸岬なんて、近くもならない。でも、真夜中に、暗い道をとぼとぼ歩きながら思うのです。どんなに理屈をこねても、歩かないと、ゴールしない。結局、自分たちに出来るのは、歩くことだけだなあ、と。

車を使うとか、電車を使うとか、いろいろ近道はあると思います。でも、ゴールしたその後に「俺は歩ききった」と、そういう自信を残してくれるのは、自分で歩いた、という事実だけなんだと思います。別に、自分で歩いたからって、なんの意味もないのですよ。車とか電車のほうが、ずっとスマートで要領のいいやりかたです。でも、それは、「その時早い」というだけで、その後に何も残してくれないと思うのです。

ジョギングだって「今日は仕事がいそがしかった」「今日はちょっと呑んじゃったから」「今日は寒いから体に良くない」とか、いろんな言い訳して、お休みする日があっても、まあ、いいんじゃないかと思います。でも、ふくらはぎが太くなるかどうかは、そんなの関係ないんですね。毎日続けたやつだけが偉いのです。

なんだかんだでいろんなものが無くなっていって、周りにいた人たちがいなくなって、最後に残るには、多分、自分がこつこつやったことだけだと、思ったりもするわけです。

話はだいぶ蛇行しましたが、そろそろまとめ。

今回、お医者さんの学会に出て、そこでの講演をいろいろ聴きました。で、いろんな事を考えました。で、結局、戻ったのは、今まで生きてきた中でも、気がつけば何度も立ち戻っていたウサギとカメの話でした。

なんだか、何年かぶりに、またこの話に戻ってきて、一気に世界が変わってしまったように見えました。今まで迷っていたのが嘘のように、単純にまっすぐな道が見えてきた感じ。

逆に、今まで、ライバルと意識していたいくつかのグループ、なんだかんだで一目置いていた人たち。その中の幾つかのグループ、何人かの人たちは、僕の心のなかで急速に色あせて、ちいさくなって、興味もなくなり、どうでもいい人たちになってしまいました。

でも、まあ、せっかく道が見えてきたので、このまま進んでみようと思います。

残念ながら、何人かのお友達とはここでお別れです。お疲れ様でした。それぞれ自分の信じる道をあるいてください。残りの皆さん、じゃあ、先に進みましょう。

ちなみに、このブログを読んで、「ひょっとして、それって、俺のとことか?」と思っている人。残念ながら、このブログを読んでいるような、そんな素敵なよくわからない人たちは、今後も安野につきまとわれて振り回されると思います。

しばしのご辛抱。

2007/11/25
Joschi