2011年12月29日木曜日

ゲームの外のゲーム:弱者の戦略としてのゲームの解除


「クリアできそうでできないゲームと
     クリア不可能にみえて可能なゲーム
        どちらが良いゲームかは言うまでもないだろう」
                       押井守監督・伊藤和典脚本「AVALON

 生きていく上での様々な出来事はゲームに例えて考えることができます。そしてみなさんはそのゲームのプレーヤーであり、プレーヤーの目的はゲームに勝利すること、ということになります。努力に努力を重ねて社会的に高いステータスを得ることも、そういうゲームにおける勝利でしょうし、仕事の中である契約を自分たちに有利な条件で締結することも交渉というゲームにおける勝利でしょう。また、電車に乗るときに隅っこの席(私のお気に入りです)に座る、というのも、そういう小さなゲームにおける勝利条件の一つでしょう。

 ゲームの中には通常さまざまなプレーヤーが存在します。なにより、複数のプレーヤーが存在しなければゲーム自体成立しません。そして、複数のプレーヤーが存在すれば、その間には強者と弱者が生まれます。この強者と弱者はどのように決まるのでしょうか。

 一つにはプレーヤー自身の能力によって決まります。実は私がこのあと議論したいのはシステムとしてのゲームとその目的です。その視点から見た場合、プレーヤー自信の能力は個別のプレーヤーに付随する不確定要素ですから、ここでは議論の対象からは外します。また、いずれにせよ、ゲームに十分に多くのプレーヤーが参加すれば、プレーヤーの能力は統計的な分布として捉えられますから、個別に議論する必要は少ないでしょう。

 プレーヤー自身の能力の他に、ゲーム内の弱者と強者を決定する要因、それは「ルール」です。言うまでもなく、ゲームはルールの下に展開されます。ルールのないゲームはもはやゲームではないですからね。ただ、そのルールは常に公平とは限りません。たとえば、双六は明らかに先手有利ですし、よりプレーヤーの能力が重視されるチェスですら白(先手)の勝率は52-56% 50%よりも大きいという統計があります[1]。このように統計的に明らかになるようなゲーム内での強者と弱者を決定するルールの要因を「ルールの非対称性」と呼ぶことにしましょう。

 上のチェスの例でもわかるように、一見公平に見えるゲームのルールにも無視できない非対称性が存在します。まして、より複雑なルールのもとで展開されている現実社会というゲームのルールには非常に多くの、そして非常に強い非対称性が存在します。例えば、親の収入と子どもの学歴の関係なども社会自体のルールの非対称性の一つでしょう。つまり、マクロな視点で議論した際に、社会全体を含めたゲームシステムの強者を決定しているのはそのゲームを支配するルールの非対称性である、と考えることができると思います。

 社会全体をゲームだと考えた時、このルールの非対称性は時に「不平等・不公平」と表現されることがあります。この言葉は非常にわかりやすいのですが、同時にネガティブな印象がありますね。本当にルールの非対称性はネガティブなものなのでしょうか。それを決めるのは、その非対称性も含んだルールが「ゲームの目的」に対し合目的的であるかどうか、ではないでしょうか。

 さて、ここで新たな言葉を使いました。「ゲームの目的」です。一見するとゲームの目的とは勝利することであると考えがちですが、そうではありません。この文章の最初を読みなおしてみてください。勝利はゲームの目的ではなく、プレーヤーの目的です。ゲーム、特に社会的に行われているゲームには何らかの目的があるはずです。ゲームの目的という言い方が抽象的にすぎるというのであれば、ゲームの主催者、仮にゲームマスターと呼びましょう、の目的といってもいいのかもしれません。

例えば、ハイエク型新自由主義社会というルールのもとで展開されるゲームでは個人の能力を重視し、個人同士をガチで競争させることで社会・経済の発展が期待されます。そして、この社会・経済の発展、がゲームマスター(たとえば政府)の期待するゲームの目的ということになります。つまり、ゲームマスターの視点で議論するならば、ルールの良否を決めるのは、「そのルールの下でプレーヤーたちによって行われるゲームによって生起する結果が、ゲームマスターの希望と一致しているかどうか」になります。ルール自体が対称か非対称かは直接的にゲームの良否を決める要素ではありません。それでは、ルールの非対称性は無視していいものなのでしょうか。

このことを考えるために、ここまで出てきた登場人物とその強弱関係を整理してみましょう。ここまでの主な登場人物は、プレーヤーとゲームマスターです。この二者の強弱関係は言うまでもなく「ゲームマスター プレーヤー」です。そしてプレーヤーの中には能力によって決定される弱者・強者とルールの非対称性によって決定される弱者と強者が存在ます。ここでは、能力による強弱はルールの非対称性による強弱と必ずしも相関がないと仮定します。ここまで出てきた登場人物の力関係は次のようになります: ゲームマスター 強い立場のプレーヤー 弱い立場のプレーヤー。ここで、立場の強いプレーヤの中には能力的に強いプレーヤーと弱いプレーヤー両方が含まれ、立場の弱いプレーヤーにもその双方が含まれることに注意してください。
さた、この登場人物の強弱関係を理解した上で、一歩引いて俯瞰的に全体の状態を考えてみましょう。

実は、ここまでの議論はすべて、プレーヤーが既にゲームにエントリーしている、もしくは必ずエントリーすることを前提として議論されていました。この状況下において絶対的に強い立場にいるのはゲームマスターです。そしてゲームマスターはゲームのルールを作成し、ゲームの目的、つまりは自らの目的を達成します。

しかし、現実にはプレーヤーは必ずしもゲームにエントリーしなくてもいいわけです。もしプレーヤーが誰もゲームに参加しないとしたらどうでしょう。また、そこまででなくても、すべてのプレーヤーがルール上強い立場のプレーヤーとしてプレーすることを希望して譲らなかったとしたらどうでしょう。この場合ゲーム自体が成立しません。そして、ゲーム自体が成立しない以上、ゲームの目的ももちろん達成されないことになります。

それでは、どのような時にプレーヤーはゲームに参加しないのでしょうか。それは、ルールの非対称性がプレーヤーにとって許容出来る範囲を超えている時です。だれしも、あまりにも不公平なルールのもとではゲームに参加したくないものです。そして、プレーヤーがゲームに参加しない以上、上述のゲームマスターはすでにゲームマスターではなく、プレーヤーもプレーヤーではありません。つまり、この状況下においてはゲームマスター、強いプレーヤー、弱いプレーヤーの間の優位・劣位の関係は解除されていることになります。

ここまでの議論を整理してみましょう。この議論では、まず、社会で発生する事象をゲームとのアナロジーで考えてきました。その上で、社会の不平等に対応するルールの非対称性という考えを導入しました。そして、その非対称性の是非を考えるためにゲームの目的、つまりは社会の目的、という概念を導入しました。この議論の中では、ゲームを行うことの目的を「ゲーム自体の目的達成」と仮定しました。そして、上記の議論から類推されることは、強すぎるルールの非対称性はゲーム自体の目的達成を阻害するということです。

上記の議論からはもうひとつ興味深いことがわかります。それは(1)ゲームが不成立になった時点で、上述の三者の立場上の優劣が解消される、(2) そして、最弱者である弱い立場のプレーヤーは不参加という手段でゲームを不成立にすることが可能である、ということです。この考え方は、社会的な抗議活動であるボイコットやストライキの論理的側面の一つと考えることもできるのではないかと思います。

つまり、弱い立場のプレーヤーはゲームへの参加を拒否することにより、もともとの強者であった強い立場のプレーヤーやゲームマスターと対等な立場になります。そして、もし、ゲームマスターにどうしてもゲームの目的を達成しなければならない事情があるとすれば、ゲームマスターはなんらかの方法でこの事態に対処する必要があります。このゲームマスターのアクションは既に当初のゲームの中で行われているわけではありません。プレーヤーの参加拒否によって出現したこの状況は「プレーヤーがゲームマスターに対して新たなルールのもとでゲームを仕掛け、ゲームマスターはその新たなゲームに参加を余儀なくされている」と考えられるのではないでしょうか。

最後に具体的な例を考えてみましょう。若者の就労問題です。ご存知のように、最近、若者の就労率の低下が問題になっていますね。そして、政府はそれを上げるために躍起になっています。確かに、今の私の立場から見ていても、近年の若者は社会の不条理を押し付けられているように感じますし、いわゆるニートと揶揄される場合のように「だったら俺もう働かねぇ」と考えることも理解できます。そして、世間ではこの問題への対応を社会的弱者の対策という視点で捉えています。しかし、本当にこの視点で適切なのでしょうか。働こうとしない、そこまでではなくとも、社会を良くするために身を粉にしてまで働こうとしない人間には、そう思うようになったそれなりの理由があるはずです。そして、それは社会のルールの非対称性ではないか、と思うのです。つまり、彼らは「このゲームには乗らない」と宣言したということではないでしょうか。そして、弱い立場でプレーを強いられるプレーヤーが唯一ゲームマスターと対等な戦いを仕掛けられる戦法がこの「ゲームの不成立化」です。そして、上で議論したように、この状況は、ゲームマスターである政府や社会そのもの、もしくは強い立場のプレーヤーである社会的な強者が立場の弱いプレーヤーの戦術によりゲームの成立を解除され、新たなルールによってゲームを仕掛けられている、と考える必要があるのではないかと思います。

ゲームマスターの仕事はゲームを成立させることによりゲームの目的を達成することです。私はここで社会の倫理的な側面を議論するつもりはありません。私自身はエンジニアですので、社会まで含めた大きな意味でのシステムが動くかどうか、に興味があります。今日本で起きていることは、社会というゲームを支配しているルールの非対称性が大きすぎ、そのことがゲームの成立そのものを阻害している、ということではないでしょうか。この動かないシステムをもう一度動かすには、まずはより対称なルールを作成しプレーヤーを集め、ゲーム自体を成立させる必要があります。

私は平等主義者ではありません。ですので、ルールが公平であること自体に意味があるとは思いません。ルールの良し悪しは、それによって支配されるゲームが、ゲームの目的を達しうるかどうかで評価されるべきだと思います。そして、プレーヤーに興味をもたせあるゲームに参加させるようなルールを作っていくことは、それ自体がより上位のゲームなのではないでしょうか。そして、その上位のゲームの中では下位のゲームのゲームマスターも下位のゲームのプレーヤーと同じ立場の一プレーヤーであることを認識する必要があるのではないかと思います。


「クリアを拒むプログラムは 既にゲームとは言えないもの」
                                                           押井守監督・伊藤和典脚本「AVALON

追記

誤解を避けるために追記しますが、ここで私が議論したのは公平配分型社会と傾斜配分型社会という社会システム自体の是非ではありません。十分に対称なルールと考えていい野球にもコールドゲームが成立することがあります。ルールの対称性、非対称性にかかわらず、公平配分型社会傾斜配分型社会の双方が成立しうると思います。しかし、その是非はまず、ゲーム、すなわち社会そのものが成立した上での議論だと考えています。つまり、結果が傾斜配分的になるにしろ、そのプロセスを成立させるためにはある程度対称なルールが必要なのではないかと考えるのです。

最近数ヶ月、個人的に様々なことを深く考える機会に恵まれました。それに伴い、実に数年ぶりに技術以外の文章を公表しようと考えました。本当は本稿では、さらに一歩進んで強い立場のプレーヤーがそのままゲームマスターとして振る舞った場合に関する論考も行おうと考えていたのですが、その前段階の論考で 4,000 字を越えてしまいました。あまり長くても読んでいる方も飽きてしまうでしょうから、こちらの各論は稿を改めて議論したいと思います。

Reference