2007年6月11日月曜日

価値観と階級の崩壊、つまりは h-index と「教授 >> 助手」の話

新しい価値観が生まれると、世界が大きく変わったりするものだと思います。いや、たぶん、より正確に言うなら、客観的な世界そのものが急激に大きく変わるわけではないのでしょう。でも、その世界を認識しているのが人の心で、そして、より本質的な「世界」は、やはり人の心に映る投影だとするならば、新しい価値観は急激に、そしてその本質的な世界を変えていくのでしょう。そして、そういう心象的な世界の変化はゆっくりと、でも確実に物質的な世界を変えていくのではないかなあ、と思います。

以前このブログで Hirsch の h-index というのを紹介しました。「他の論文からどれぐらい自分の論文が引用されているか」という情報を分析することで、研究者の業績を客観的に評価する手法です。この手法、初めて聞いた時は「ああ、こりゃ、頭のいい方法だなあ」ぐらいにしか思わなかったのです。でも、その後いろいろ考えるにつれ、この h-index大学というアカデミズムの階級社会の構造を根本的に書き換えるような、そんなインパクトのあるものではないかなあ、と思うようになりました。

みなさん信じるかどうかは別として、僕の理解では、大学というのは巨大な階級社会です。教授 > 助教授(準教授) > 講師 > 助手(助教)> 学生 という厳然とした階層構造が存在します。いや、別に、「教授の独裁体制がある!」とか「学生が虐げられている!」というわけではないですよ。そういうことも有る所には有るのでしょうが、僕自身は今の職場でそういうのは感じません。ただ、やっぱり、階級社会自体は、厳然とある、と感じるのです。

たとえば、筑波大学の場合、講師と助手の給与体系はほとんど同じです。でも、講師には学長選の投票権があって、助手にはありません。つまり、助手には、自分のボスを選ぶ権利はなく、講師にはあるのです。人にとって、誰を大将とするかってのは、自分自身の尊厳にかかわる大問題です。でも、助手はそれに口さえ出せないのです。

また、教授と助手では出張の宿代なんかも違います。教授の上限のほうが助手のそれより高いのです。ただし、微量。その上限が上がったからと言って、別に一ランク上のホテルに泊まれるってほどではありません。それでも、助手や学生のやる気をそぐには十分です。まあ、僕が勝手に思うに、なんというか、ステータスなんですね。教授 >> 助手、みたいな。

でも、なぜか、大学人というのはこのステータスを目指すのですよ。がんばって出世して最後は名詞に「教授」と書こうと。で、その肩書きを得るためには、いろいろと、納得のいかないこともやらないといけないわけです。やりたくないこと、じゃないですよ。納得のいかないこと、です。

ここ、ちょっとややこしいですが、「やりたくないこと」は、嫌な仕事です。嫌でも、誰かがやらないといけない仕事ってありますし、嫌でもきちんとやらなきゃ自分自身も成長出来ない仕事ってのもあります。そいういうのが「やりたくない仕事」。例えば、自宅の掃除とか…

で、「納得のいかない仕事」は、自分自身は「こんなことをやってはいけない!」と信じている仕事です。たとえば、自分はそうは思ってないのに、国に出す報告書に「ある意味世界一」みたいな事を書いたりする仕事です。他には「大学のこの決定、おかしいでしょ?」と思っても、文句をいわずにそれに従ったりする仕事。

この納得のいかない仕事、僕はほんとに嫌なんですね。まあ、性格が不便にできているんでしょうが、なんど挑戦してもできないのです。だいたい周りと喧嘩になります。でも、そこは大人。そのへん飲み込んでいかないと大学では出世できないのです。僕は基本的に俗人なので、やっぱ、ステータス欲しいです。だから納得のいかない仕事もせざるを得ないのです。得ないのですが…、やっぱいやだ!と、なるわけです。

まあ、安野を知っている人はみんな気づいているでしょうから、ぶっちゃけてしまえば、僕自身「教授」なんて「階級」は全然尊敬していません。もちろん、尊敬している人が教授だった、ということはよくあります。自分が師匠だと認めた人は、たとえそれが教授だろうと、やっぱり尊敬してしまいますし、直接いろんな事を話した人は、たとえそれが教授だろうと、やっぱり、一目おいてしまったりもします。でも、別に教授だからといって人を尊敬することはありません。むしろ、幼少期の教育の賜物で、大学の先生、というだけで「ああ、あの世間知らずなイケてないおじさんね」と、まず自分より一段格下に見てしまうところまであります。これが僕が育った環境「飲み屋街」での大学の先生に対する評価でした。「先生様」「先生様」と言い気にしておけば、すぐに丸めこめる程度の、まあ、何というか、世間で一番騙しやすいうぶな人種です[1]。

だから、矛盾だったのです。自分が働いている世界でステータス築こうとすると、自分が馬鹿にしてる階級にならないといけない、そしてなにより、そのためには「納得のいかない仕事」をしなければならない。いや、むしろ、僕が大学の先生を、大学の先生というだけでまず小馬鹿にしたりするのは、彼らが僕の思う「納得のいかない仕事」をしている人たちだからでしょう。

なんというか、まあ、完全に矛盾・閉塞した状況です。

でも、そんな不便な状況を一気に解決する方法があるのです!それが「ステータスを作っている価値観そのものを書き換える」という方法。大技です。なにせ、ゲームのルールを変えてしまうわけですから。ただし、僕の心の中だけですが。そして、その新しいルールが h-index なわけです。

階層システムの多くは、ある直線的な一本道の価値観を設定することで機能します。だって、一本道で脇道がなければ、自分の前にいる人間の言うこときかなきゃその先に進めないじゃないですか。助教授が助手と喧嘩しても教授にはなれるかもですが、助教授が教授と喧嘩したら教授にはなれません[2]。

まあ、本来、そのこと自体がおかしいのですが。だって、研究者・技術屋としての能力は教授と仲がいいかどうかとは関係ないのですから。でも、そのおかしいところを押さえつけて階層社会を作るにはどうしたらいいのか?それが「抜け道のない一本道の価値観を作ること」です。その価値観の中では、道の前にいる人間は道の後ろにいる人間に対して絶対的な影響力を持つことになります。とうせんぼできますから。しかも、このとうせんぼ機能、それを本人が望む望まないにかかわらず発生します。だから、教授がそんなものを望んでいない場合すら、時としてその階層構造は発生してしまうのです。

では、その「抜け道のない一本道の価値観」に支えられた階級システムを打破するにはどうしたらいいのか?簡単です。「抜け道」を作ればいいのです。抜け道があれば、前にいるやつなんて怖くありません。なにより、道が一本道でなくなった時点で「前」は「前」でなくなり「後」は「後」でなくなります。いや、「前」「後」、「上」「下」という概念自体が消失するのでしょう。

それは、軽薄な一般的な言葉を借りるなら「価値観の多様性」、もっと単純でわかりやすい言葉を選ぶなら「自由」ということだと思います。

そして、僕にその自由を返してくれたのは h-index でした。大学で研究者として成功するためには、別に教授になる必要なんてないのです。だって、そのへんでエヘンエヘンしている教授より高い h-index を獲得すれば、僕の心の中では「俺のがアカデミストとして格上」です。教授の給料なみのお金が欲しけりゃ特許書いて企業に売ればいいのです。名詞に書く肩書きに興味がなければ、これおでおしまい。勝負ありです。

もう、階級なんて怖くありません。納得のいかないことは大きな声で「納得いかねー!」と言えるし、思い切り喧嘩だってできます。生きてるのが楽しくてしかたありません。僕の中の世界では、大学の階級制度は、すでに崩壊したのです。

みんながこんな風に、自分の中に自分の価値観をもって、上目遣いじゃなく生きていくようになれば、一緒に飲みに行って楽しい人間がもっと増えるのになあ、と思ったりもします。

Joschi

[1] 実際にはそのうぶさゆえ、馬鹿にされもすれ、同時に愛されもするのですが、その辺の話は、そのうち、「飲み屋街からみた大学の先生」みたいな話としてまとめてみれたらなあ、と思います。

[2] まあ、これは極論。教授にも懐の深い人はたくさんいて、普通、一回喧嘩したぐらいで教授になれないってことはないです。中には、食ってかかってくる部下が可愛いという懐ブラックホールな教授もいます。

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