2012年8月15日水曜日

論文の書き方 Step-by-step

数年前から、自分自身では極力論文を書かずに、いかにスタッフ・
学生を直接の執筆者としてクオリティの高い論文を仕上げるか、という方法の構築に熱中していました。最近になって、ようやっとその手法をテキストにまとめることができました。

研究論文とはいったい何なのか
、という自分なりの議論から紐解いています。
Creative commons (自由に再配布可)で配布しますので、ご興味のあるかたはどうぞ


>> "A Card-Based Method for Scientific Paper Writing" by Yoshiaki Yasuno

※ このテキストの日本語版を作成していただける方を募集しています。ご興味のある方は安野までメールでご連絡ください。

2012年6月9日土曜日

縦糸と横糸の話: 工学と工業の関係


私は大学の工学部(正確には理国学群応用理工学類)で働いています。と、同時に、自分自身の大学人としてのキャリのかなり初期から、様々なメーカーの開発プロジェクトに参加してきました。私が大学にいて、そして、同時にメーカーとも一緒に働いてきたこの10年の間に、日本の工業をとりまく状況、特に世界の中での日本の工業の位置づけは大きく変わってしまった気がします。より明確に表現すると、日本の工業の世界的な存在感は、この10年、5年の間に急激に低下している、というのが私の感想です。

どうしてこのような状況になってしまったのか、それを考えているうちに、まず、大学の工学部の役割について考えるようになりました。そして、それを明確にするためには、工業と工学の関係、また、産業とアカデミアの関係について考えることは避けられないと感じるようになりました。そして、それらに答えを出すためには、まず、「いったい工学とはなんなのか」という根本的な問題、物事の定義の問題を強く意識する必要があると感じるようになりました。

大学で工学を教えていると、よく「その研究は応用的すぎて、わざわざ大学でやることではない(メーカーでやるべきことだ)」という意見や、「そこまで技術が完成しているのならば、いっそ起業してはどうですか?」という意見を聞くことがあります。このことが象徴するように、一般的には、大学の理学部・工学部、メーカーにおける研究・開発の関係は、「応用度」≒「実用化までの距離」という順に、次のように並んでいると考えられているように感じます。

理学部 → 工学部 → メーカー研究 → メーカー開発

しかし、本当にそうなのでしょうか。この「基礎から応用へ」と「アカデミアから産業へ」を対比するモデルは、本当に検証されたモデルなのでしょうか。私は、そのことそのものに疑問を感じるようになったのです。もし、社会の生産システム設計の根本となるモデルが間違っているとしたら、その社会が効率的に生産的になることはありません。

産業とアカデミアの関係、そして、社会における「工学という学問の位置づけ」、それらを明確にすることが、産業と教育を適切に結びつける鍵であり、そして、いつのまにかボタンを掛けちがってしまった今の日本の教育・産業を立て直す鍵なのではないかと思います。そして、それを理解するためのキーワードの一つが「工学」という言葉の定義なのではないかと思うのです。

現時点ではまだ中間的な思索の段階でしかありませんが、きょうはひとまず、ここまでの私の考えをまとめてみたいと思います。



まず最初に注目したいのは、「工学」と「工業」の違いです。とかくこの二者は混同されがちですが、実際には階層(次元)がまったく異なる概念なのではないかと考えています。実際に、日本語では近しい言葉が当てられている工学と工業ですが、英語では工学は Engineering Science、工業は Industry とまったく異なった言葉が当てられます。

同時に「工学」と「理学の」(Natural Science) に関してもその違いを意識してみましょう。 そうすると、いままで見えてこなかった社会システムのフレームワークが、少しですが、見えてきます。

まずは、工学と理学の違いについて考えてみたいと思います。一般に広く受け入れられている考え方に「より基礎的なものが理学であり、より応用的なものが工学である」というものがあります。そして、この考え方は、より単純化されて「理学の延長線上に工学がある」という「一直線上に2つの学問が前後してならんでいる」という概念で捉えられることが多いようです。(特に、工学と物理・化学のあいだではそのように考えられるのではないでしょうか。)

しかし、私はこの考え方が日本における「工学部」のありかたを誤らせたのそもそもの原因ではないかと考えています。(言い忘れましたが、私は今の日本の社会システムにおける工学部のあり方は最適ではないと考えています。工学部の大学人は無能であるとか、アメリカに負けているとかいうことではなく、日本の社会システム全体における工学部と大学理学部・産業・工業の相対的な位置関係が最適ではない、という意味です。)

もうすこし具体的な例で理学と工学の違いを見てみましょう。

例えば、電磁気学(物理学)と(古典的な)電気回路学(工学)を考えてみてください。
古典的な電気回路の考え方では、電流とはプラス極からマイナス極に流れる「仮想的な流れ」です。一方、電磁気学では、電流とはマイナス極からプラス極に流れる電子の流れです。電磁気学における電子とは「実在する」負の電荷を持った粒子です。一方、古典的な電気回路における電流とは、電気回路の振る舞いを記述し、制御するために便利な「仮想的な流れ」、つまり、概念です。
よく、高校の物理の授業などで「電流の正体は電子の流れである」と教えることがあります。これは、物理学(電磁気学)としては正解ですが、工学(電気回路学)としては必ずしも正しくありません。工学(電気回路学)における電流とは「正極から負極に流れているなにか」という概念そのものなのであり、その物理的な実態とは、本質的には無関係なのです。そして、その概念的・仮想的な電流という「なにか」の振る舞いを記述・制御するためにオームの法則やファン・テプナンの定理など様々なルールがつくられました。
つまり、工学である古典電気回路学は、まず概念として「電流」を定義し、その振舞を理解・制御するためのフレームワークを構築することで発達してきた、と考えることができます。ここでは、「電流が実際何なのか」を知る必要はありませんし、そもそも「電流」が実在する物理現象である必要もありません。(なにより、この電流と電子の流れという例では、これらの流れる方向が逆、という段階で世紀の大間違いです。)

このような例は光学においても見られます。物理(光物理)では「光」はフォトンという粒子であり、同時に波でもあります。一方、この「光」と混同されがちなものとして「光線」というものがあります。これらは、日本語で書くと非常に似た言葉になりますが、英語では light(光)とray(光線)と、まったく異なった概念であることがわかります。「光線」とは、工学の一つである古典的な光学における概念であり、アイコナール方程式と呼ばれる微分方程式の解という数学的な概念でしかありません。この光線は定義からして光とは異なったものですが、光という物理的な存在によって起こる現象の多くは光線という概念で非常にうまく説明でき、また、利用することができます(註1)。

このように見ていくと、工学とは「背景にある原理(たとえば物理的・化学的原理)とは無関係に、ある現象を統一した概念で記述し、それによって、その現象を制御・利用することを可能たらしめる理論体系」である、といえるのではないかと思います。さらに、ここでいう「ある現象」とは、必ずしも物理的・化学的な現象だけではありません。人の作った機械装置の振舞、人の集団の振舞、さらにはお金の流れなども含まれます。そして、この対象とする現象によって「システム工学」、「社会工学」、「金融工学」などの名前がつくのではないでしょうか。このように様々な細分野のある工学ですが、それらすべてにおいて、本質は、対象を体系化された手法で記述・制御することではないかと思います。

それに対し、理学とは(たとえば)物理的・化学的な現象のメカニズムを「解明」することを本質とした学問です。このように考えると理学とは「実在する事象(物理現象など)を対象相とする学問である」のに対し、工学とは「対象を限定せず、さまざまな対象を記述・制御する『概念と方法』を作りだし、その体系化を試みる学問」といえるのではないでしょうか。こう考えると、いわば、理学が縦糸の学問であるのに対して、工学は横糸の学問、ということになります。

そして、工学という横糸と理学という縦糸で作られた面の一つが「工業」ではないでしょうか。仮に、工学と理学それぞれを世界を作る1次元的な要素であると考えましょう。そして、それらはさらに「互いに直行する1次元的な要素」ということになるのではないかと思います。そして、「工業」とは、それらによって作られる2次元的な概念ということではないでしょうか。

このように考えると、今の大学が(そしておそらく社会全体が)暗黙のうちに定義している「理学の応用度をあげていくと工学」という考え方では、所詮工学は「応用的な理学」にしかならず、それはやはり、縦糸でしかありません。縦糸だけをどれだけあつめても、縦糸同士がつながらず面として工業は発達しないことになります。(次元の例えで言えば、互いに平行な1次元である理学と(今日の大学の定義する)工学では、2次元の概念である工業を規定することはできません。平行な直線二本では、面は定義できないのです。

そして、これがまさに、日本の工業力の低下の遠因ではないかと考えています。

このように考えていくと、「工学」が行うべきことも自然と見えてくることになります。工学の役割、それは「方法を体系化していく」ということです。大学という組織の目的を加味してさらにいえば「大学工学部の役割は、「方法」を理論体系化して容易に再利用可能にする」ことではないかと考えています。そして、教育機関としての工学部の役割は、その理論体系を利用できる人材を育成する、ということになるのではないでしょうか。

余談ですが、私は、大学の工学部の教員であるにもかかわらず、技術戦略やグループ運営、マネージメントに関する意見を求められることや、それに関する講演を頼まれることがあります。そのような話をした後、よく、「どこでそういうことを勉強したんですか」と聞かれることがあります。ただ、私の感覚では「物を作る方法論(つまり工学)を突き詰めて考えていたら、戦略も、運営も、マネージメントも見えてきた」という気がします。実際、私自身、OCT装置の構成を検討する際、画像処理アルゴリズムを作る際、プロジェクト管理をする際など、あらゆる場面でほとんど同じものの考え方をします。

たとえば、光断層装置の制御の際に「ガルバノミラー(電圧可動ミラー)にかける電圧の高周波成分を予めフィルターで除去することで、機械的な共振ノイズを減少させる」ことがあります。一方、プロジェクトの進捗管理の際に、技術スタッフに対して「新たに技術課題(問題)を見つけても、すぐに手を付けずに、は一旦週一回の定例ミーティングで検討してから、対応するかどうかを決定する」というポリシー設定することがあります。これらはどちらも「装置(組織)の構成要素(ガルバノミラー・人)の対応できない速さで変化する状況(ノイズ・技術課題)に対しては、わざと反応速度を遅くすることで、無意味な行ったり来たりを回避する」という、まったく同じ方法論から得られる結論です。そして、この体系化された方法論の集合が「工学」という学問なのではないかと考えています。

物を作る、ということは、一見応用度が高く専門化された狭い分野に見えます。しかし、一つの目的のために収束し、先鋭化された理論は、その後より広くあらゆる分野に応用がききます。工学者としてこれを表現するならば次のようになるのです。

光には、一旦空間的に収束すると、それによって、その後の進行方向が発散する、という本質的な不確定性があります。同様に、ある信号は自体が強く局在すればするほどそのスペクトルは広がります。仏教的な世界観では、自分自身の中の小さな世界は、その小さな極限において、広大な世界そのものとつながっていきます。それらと同じように、ある分野に先鋭化された方法論は、すべての分野に適応可能になると、考えています。


[註1] これらの電流と電子の流れの例、光線と光の例では、実際には物理現象でる「電子」や「光」と概念である「電流」や「光線」を厳密に結びつけることが可能です。例えば、電流は単位時間にある面を通過した電子の個数(電荷量)ですし、光線は波長無限小の光の振る舞い、です。ただし、今回の議論では、電流や光線の概念が、これらの物理的に正確な描写とは異なった動機で作られたことにが重要になります。

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2011年12月29日木曜日

ゲームの外のゲーム:弱者の戦略としてのゲームの解除


「クリアできそうでできないゲームと
     クリア不可能にみえて可能なゲーム
        どちらが良いゲームかは言うまでもないだろう」
                       押井守監督・伊藤和典脚本「AVALON

 生きていく上での様々な出来事はゲームに例えて考えることができます。そしてみなさんはそのゲームのプレーヤーであり、プレーヤーの目的はゲームに勝利すること、ということになります。努力に努力を重ねて社会的に高いステータスを得ることも、そういうゲームにおける勝利でしょうし、仕事の中である契約を自分たちに有利な条件で締結することも交渉というゲームにおける勝利でしょう。また、電車に乗るときに隅っこの席(私のお気に入りです)に座る、というのも、そういう小さなゲームにおける勝利条件の一つでしょう。

 ゲームの中には通常さまざまなプレーヤーが存在します。なにより、複数のプレーヤーが存在しなければゲーム自体成立しません。そして、複数のプレーヤーが存在すれば、その間には強者と弱者が生まれます。この強者と弱者はどのように決まるのでしょうか。

 一つにはプレーヤー自身の能力によって決まります。実は私がこのあと議論したいのはシステムとしてのゲームとその目的です。その視点から見た場合、プレーヤー自信の能力は個別のプレーヤーに付随する不確定要素ですから、ここでは議論の対象からは外します。また、いずれにせよ、ゲームに十分に多くのプレーヤーが参加すれば、プレーヤーの能力は統計的な分布として捉えられますから、個別に議論する必要は少ないでしょう。

 プレーヤー自身の能力の他に、ゲーム内の弱者と強者を決定する要因、それは「ルール」です。言うまでもなく、ゲームはルールの下に展開されます。ルールのないゲームはもはやゲームではないですからね。ただ、そのルールは常に公平とは限りません。たとえば、双六は明らかに先手有利ですし、よりプレーヤーの能力が重視されるチェスですら白(先手)の勝率は52-56% 50%よりも大きいという統計があります[1]。このように統計的に明らかになるようなゲーム内での強者と弱者を決定するルールの要因を「ルールの非対称性」と呼ぶことにしましょう。

 上のチェスの例でもわかるように、一見公平に見えるゲームのルールにも無視できない非対称性が存在します。まして、より複雑なルールのもとで展開されている現実社会というゲームのルールには非常に多くの、そして非常に強い非対称性が存在します。例えば、親の収入と子どもの学歴の関係なども社会自体のルールの非対称性の一つでしょう。つまり、マクロな視点で議論した際に、社会全体を含めたゲームシステムの強者を決定しているのはそのゲームを支配するルールの非対称性である、と考えることができると思います。

 社会全体をゲームだと考えた時、このルールの非対称性は時に「不平等・不公平」と表現されることがあります。この言葉は非常にわかりやすいのですが、同時にネガティブな印象がありますね。本当にルールの非対称性はネガティブなものなのでしょうか。それを決めるのは、その非対称性も含んだルールが「ゲームの目的」に対し合目的的であるかどうか、ではないでしょうか。

 さて、ここで新たな言葉を使いました。「ゲームの目的」です。一見するとゲームの目的とは勝利することであると考えがちですが、そうではありません。この文章の最初を読みなおしてみてください。勝利はゲームの目的ではなく、プレーヤーの目的です。ゲーム、特に社会的に行われているゲームには何らかの目的があるはずです。ゲームの目的という言い方が抽象的にすぎるというのであれば、ゲームの主催者、仮にゲームマスターと呼びましょう、の目的といってもいいのかもしれません。

例えば、ハイエク型新自由主義社会というルールのもとで展開されるゲームでは個人の能力を重視し、個人同士をガチで競争させることで社会・経済の発展が期待されます。そして、この社会・経済の発展、がゲームマスター(たとえば政府)の期待するゲームの目的ということになります。つまり、ゲームマスターの視点で議論するならば、ルールの良否を決めるのは、「そのルールの下でプレーヤーたちによって行われるゲームによって生起する結果が、ゲームマスターの希望と一致しているかどうか」になります。ルール自体が対称か非対称かは直接的にゲームの良否を決める要素ではありません。それでは、ルールの非対称性は無視していいものなのでしょうか。

このことを考えるために、ここまで出てきた登場人物とその強弱関係を整理してみましょう。ここまでの主な登場人物は、プレーヤーとゲームマスターです。この二者の強弱関係は言うまでもなく「ゲームマスター プレーヤー」です。そしてプレーヤーの中には能力によって決定される弱者・強者とルールの非対称性によって決定される弱者と強者が存在ます。ここでは、能力による強弱はルールの非対称性による強弱と必ずしも相関がないと仮定します。ここまで出てきた登場人物の力関係は次のようになります: ゲームマスター 強い立場のプレーヤー 弱い立場のプレーヤー。ここで、立場の強いプレーヤの中には能力的に強いプレーヤーと弱いプレーヤー両方が含まれ、立場の弱いプレーヤーにもその双方が含まれることに注意してください。
さた、この登場人物の強弱関係を理解した上で、一歩引いて俯瞰的に全体の状態を考えてみましょう。

実は、ここまでの議論はすべて、プレーヤーが既にゲームにエントリーしている、もしくは必ずエントリーすることを前提として議論されていました。この状況下において絶対的に強い立場にいるのはゲームマスターです。そしてゲームマスターはゲームのルールを作成し、ゲームの目的、つまりは自らの目的を達成します。

しかし、現実にはプレーヤーは必ずしもゲームにエントリーしなくてもいいわけです。もしプレーヤーが誰もゲームに参加しないとしたらどうでしょう。また、そこまででなくても、すべてのプレーヤーがルール上強い立場のプレーヤーとしてプレーすることを希望して譲らなかったとしたらどうでしょう。この場合ゲーム自体が成立しません。そして、ゲーム自体が成立しない以上、ゲームの目的ももちろん達成されないことになります。

それでは、どのような時にプレーヤーはゲームに参加しないのでしょうか。それは、ルールの非対称性がプレーヤーにとって許容出来る範囲を超えている時です。だれしも、あまりにも不公平なルールのもとではゲームに参加したくないものです。そして、プレーヤーがゲームに参加しない以上、上述のゲームマスターはすでにゲームマスターではなく、プレーヤーもプレーヤーではありません。つまり、この状況下においてはゲームマスター、強いプレーヤー、弱いプレーヤーの間の優位・劣位の関係は解除されていることになります。

ここまでの議論を整理してみましょう。この議論では、まず、社会で発生する事象をゲームとのアナロジーで考えてきました。その上で、社会の不平等に対応するルールの非対称性という考えを導入しました。そして、その非対称性の是非を考えるためにゲームの目的、つまりは社会の目的、という概念を導入しました。この議論の中では、ゲームを行うことの目的を「ゲーム自体の目的達成」と仮定しました。そして、上記の議論から類推されることは、強すぎるルールの非対称性はゲーム自体の目的達成を阻害するということです。

上記の議論からはもうひとつ興味深いことがわかります。それは(1)ゲームが不成立になった時点で、上述の三者の立場上の優劣が解消される、(2) そして、最弱者である弱い立場のプレーヤーは不参加という手段でゲームを不成立にすることが可能である、ということです。この考え方は、社会的な抗議活動であるボイコットやストライキの論理的側面の一つと考えることもできるのではないかと思います。

つまり、弱い立場のプレーヤーはゲームへの参加を拒否することにより、もともとの強者であった強い立場のプレーヤーやゲームマスターと対等な立場になります。そして、もし、ゲームマスターにどうしてもゲームの目的を達成しなければならない事情があるとすれば、ゲームマスターはなんらかの方法でこの事態に対処する必要があります。このゲームマスターのアクションは既に当初のゲームの中で行われているわけではありません。プレーヤーの参加拒否によって出現したこの状況は「プレーヤーがゲームマスターに対して新たなルールのもとでゲームを仕掛け、ゲームマスターはその新たなゲームに参加を余儀なくされている」と考えられるのではないでしょうか。

最後に具体的な例を考えてみましょう。若者の就労問題です。ご存知のように、最近、若者の就労率の低下が問題になっていますね。そして、政府はそれを上げるために躍起になっています。確かに、今の私の立場から見ていても、近年の若者は社会の不条理を押し付けられているように感じますし、いわゆるニートと揶揄される場合のように「だったら俺もう働かねぇ」と考えることも理解できます。そして、世間ではこの問題への対応を社会的弱者の対策という視点で捉えています。しかし、本当にこの視点で適切なのでしょうか。働こうとしない、そこまでではなくとも、社会を良くするために身を粉にしてまで働こうとしない人間には、そう思うようになったそれなりの理由があるはずです。そして、それは社会のルールの非対称性ではないか、と思うのです。つまり、彼らは「このゲームには乗らない」と宣言したということではないでしょうか。そして、弱い立場でプレーを強いられるプレーヤーが唯一ゲームマスターと対等な戦いを仕掛けられる戦法がこの「ゲームの不成立化」です。そして、上で議論したように、この状況は、ゲームマスターである政府や社会そのもの、もしくは強い立場のプレーヤーである社会的な強者が立場の弱いプレーヤーの戦術によりゲームの成立を解除され、新たなルールによってゲームを仕掛けられている、と考える必要があるのではないかと思います。

ゲームマスターの仕事はゲームを成立させることによりゲームの目的を達成することです。私はここで社会の倫理的な側面を議論するつもりはありません。私自身はエンジニアですので、社会まで含めた大きな意味でのシステムが動くかどうか、に興味があります。今日本で起きていることは、社会というゲームを支配しているルールの非対称性が大きすぎ、そのことがゲームの成立そのものを阻害している、ということではないでしょうか。この動かないシステムをもう一度動かすには、まずはより対称なルールを作成しプレーヤーを集め、ゲーム自体を成立させる必要があります。

私は平等主義者ではありません。ですので、ルールが公平であること自体に意味があるとは思いません。ルールの良し悪しは、それによって支配されるゲームが、ゲームの目的を達しうるかどうかで評価されるべきだと思います。そして、プレーヤーに興味をもたせあるゲームに参加させるようなルールを作っていくことは、それ自体がより上位のゲームなのではないでしょうか。そして、その上位のゲームの中では下位のゲームのゲームマスターも下位のゲームのプレーヤーと同じ立場の一プレーヤーであることを認識する必要があるのではないかと思います。


「クリアを拒むプログラムは 既にゲームとは言えないもの」
                                                           押井守監督・伊藤和典脚本「AVALON

追記

誤解を避けるために追記しますが、ここで私が議論したのは公平配分型社会と傾斜配分型社会という社会システム自体の是非ではありません。十分に対称なルールと考えていい野球にもコールドゲームが成立することがあります。ルールの対称性、非対称性にかかわらず、公平配分型社会傾斜配分型社会の双方が成立しうると思います。しかし、その是非はまず、ゲーム、すなわち社会そのものが成立した上での議論だと考えています。つまり、結果が傾斜配分的になるにしろ、そのプロセスを成立させるためにはある程度対称なルールが必要なのではないかと考えるのです。

最近数ヶ月、個人的に様々なことを深く考える機会に恵まれました。それに伴い、実に数年ぶりに技術以外の文章を公表しようと考えました。本当は本稿では、さらに一歩進んで強い立場のプレーヤーがそのままゲームマスターとして振る舞った場合に関する論考も行おうと考えていたのですが、その前段階の論考で 4,000 字を越えてしまいました。あまり長くても読んでいる方も飽きてしまうでしょうから、こちらの各論は稿を改めて議論したいと思います。

Reference

2007年12月10日月曜日

権力と支配の話、もしくは、無力な権力の話。

2001年の秋から、もう6年も前のことになるのですが、僕はドイツのストゥットガルト大学でコンフォーカル顕微鏡のプロジェクトに参加していました。そのおかげで、2002年のお正月、ちょうどヨーロッパの人たちがユーロ貨幣を使い始める瞬間をその場で見ることが出来たわけです。まあ、実を言うと、収集癖のある僕は、がんばって銀行にならんでユーロコインのスターターキットを手に入れたりしてたのですが…

 ユーロコインって、表側のデザインは各国共通なんです。「50セント」とか書いてあって。でも、裏側のデザインが全部の国で違うんですよ。コレクター心をメッキョ[1] くすぐります。で、やはり、今この瞬間にヨーロッパにいられる幸福に感謝するためにも「集めなきゃでしょ!」と思ったわけです。で、必死に集めたわけです。別に隣国まで遠征するわけじゃないですよ。ただ普通に日常生活を送っていて、買い物した時におつりをチェックするわけです。まだ集めてないコインがあるかどうか。で、びっくりしたんですが、なんと、ユーロ貨幣使用開始から2週間もすると、近所の国のコインが普通におつりに混じってくるようになるんですよ。シュトットガルトで。イタリアとかフランスのコインが。

コレクターとして仰天+興奮したのですが、それ以上に別の意味で仰天+興奮、いや、仰天×興奮!しました。ドイツとフランスなんて、つい最近まで何度も戦争やってるわけですよ。それが、今や、ユーロ使用開始後2週間でコインが行き来するぐらい近い存在になっているのです[2]。コインが行き来するって、貿易とかじゃないじゃないですか。「人」そのものが行き来するってことだから。

これはすごいことになった!と思ったわけです。実際にはユーロ貨幣流通の3年前から、ヨーロッパでは商取引はユーロベースで動いていたわけですが、実際に目の前に「ユーロコイン」「ユーロ紙幣」という通貨が実態として現れると人々の気持ちが違います。実際、その時僕の周りに居た人たちはみんな興奮してたし。自分たちのおじいちゃんどうしが戦争をしていた国に遊びに行くのに、パスポートも両替もいらない。その体験はすごいインパクトですよ。こりゃ、本格的にヨーロッパは一つになるな、と、そう思いました。実際、その直後には「EU憲法」なんて話も出て来ることになったわけですし。

 こりゃもう、アジアもうかうかしてられない!と思いました。僕らもなにかしなくちゃ!と。国益とかなんとか、一国のレベルで考えてる場合じゃないでしょ!アジアの通貨統一?しなきゃまずいでしょ。ヨーロッパとアメリカの経済に呑み込まれちゃいますよ。アジアは。国と国がいがみあってる場合じゃないでしょ!政治協力?やらなきゃ!やらなきゃ!

今からちょうど6年前、こういう風に感じたのです。でも、これ、本当にそうなんでしょうか。

 ここでちょっと話を変えます。

 最近、仕事の関係で、いろんな業種の人と会って話す機会があります。僕らのようなアカデミックポジションにいるエンジニア、産業界に身を置くエンジニア、大学の医局の中のお医者さん、工学部の学生、医学部の学生、メーカーの営業系の人たち、企画系の人たち、契約、法務、財務の人たち、大学を支える執行部の人たち、本部の人たち。それぞれがそれぞれ異なった世界で異なったヒエラルキーに属して生きています。(少なくとも僕にはそう見えます)。

6、7年前。僕が博士課程の学生だった頃、僕は、日本の工学アカデミズムの、しかも「光学」というヒエラルキーしか知りませんでした。で、「出世っていうのは、ヒエラルキーのピラミッドを登っていくことなのかなあ」と思っていたわけです。で、博士をとって、まったく別の国で研究プロジェクトに参加してみて、いままで知らなかったことに気付いたのです。たとえば、日本の光学の世界で大先生みたいに言われていて、無限の政治力を手にしているような人でも、例えばドイツの光学界では、何の権力も持っていません。当然と言えば当然ですが。日本が技術的に遅れているとか、そういう話ではないですよ。単純に権力の話。なんか、どうやら、ヒエラルキーって、いっぱいあるんですよ。並列に。同じようなヒエラルキーがわんさと。

 でも、これって、ちょっと考えると、変じゃないですか?ヒエラルキーって、頂点が一つだからヒエラルキーなんだと思うんですよ。頂点が一つだからヒエラルキーを『登る』ことが出来るというか。それがいくつもあったら、すでにトップもなにも無いじゃないですが。ヒエラルキーAのトップとヒエラルキーBのトップって、どっちが上の立場なの?みたいに。

 かっこよく言えば、この事に気付いた(実感した)ことは、物の見方の次元の超越だったんだと思います。今までは一枚の紙の上にヒエラルキーの図を描いて、その「上」を目指そうとしていた。そんな人が、机の上に、そのヒエラルキー図を何枚も、しかも、いろんな方向を向けて並べられて、で、それを上から眺めているような。で、聞かれるんですよ「これ、どっちが上だと思う?」って。上もくそもないでしょう。だって、みんな平らな机の上の話。ヒエラルキーAの「上」は「右」向いてるし、ヒエラルキーBの「上」は「左」向いてるわけです。それは、もはや「右」と「左」であって、「上」でも「下」でも無いわけです。しいて言えば、それを上から俯瞰している自分が「上」?みたいな感じです[3]。

 この着想を得た瞬間、「自分は無敵だ!」と思いました。いや、今でも思っています。だって、上も下もなければ、勝ちも負けもないわけで。負けたくても負けられない。生涯負けられない=無敵ですわ[4]。まあ、そこから逆に、友人をして「出世街道を逆走している」という僕のキャリアがスタートするわけですが。でも、自分としては逆走るつもりはありません。自分が自分で決めた「上」という相対的な場所をめざして進んでいるつもりです。(まあ、よくその「上」の場所が変わるのは問題かもしれませんが…)

 でも、僕の周りを見ていると、「ヒエラルキーの頂点」をめざしている人って、結構多いんですよ。優秀な人に特に多いように感じます[5]。ヒエラルキーの頂点って何があるんでしょうか?一つは、そこに登ってみないと見えない景色というのが、あると思います。でも、それは、ヒエラルキーを机に並べて眺めてしまった時点で、意味がなくなってしまうものだとは思うのですが。でも、まあ、一回ためして見ないとわからないものなのかもしれません。で、もう一つは、いわゆる「権力」というものなのかなあ、と思うのです。

 「権力」って、何なんでしょうか?たとえば、気に入らない人間を「干す」ことが出来たら、それは権力ってことでしょうか?指先を動かすだけで人が動けば、それが権力?まあ、僕自身は、そうじゃないかなあ、と考えてきました。でも、実際にそんなことってあるのでしょうか?あるヒエラルキーのトップは、気に入らない人間を、そのヒエラルキーからはじき出す(干す)ことが出来るかもしれません。で?多分その人は別のヒエラルキー移るでしょう。それだけ。例えば僕が光学アカデミズムから干されたら眼科アカデミズムに移るし、そこでも干されたら、産業界のヒエラルキーに移ることもできる。そこでも干されたら…コンビニでバイトしながら「バイトから社長」をめざせばいいのでは?と、思ったりするわけです。生きてくだけなら、なんとでもなるでしょ。自分の目指す「上」は自分で好きに決めちゃえるんだから。

立ち悪いですね。こういう奴って、干しようがないですよ。まさに無敵。そして、この程度の発送の転換をするだけで、権力やヒエラルキーは崩壊してしまうのではないか、と。そういう風に思うのです。

 でも実際、歴史的に、極めて大きなヒエラルキーが築かれた時期は、確かにあります。まだ、ほんの少し前の話。僕たちのおじいちゃんどうしが戦争をしていたころの話です。日本もドイツも、アジアやヨーロッパに巨大なヒエラルキーを作ろうとしました。たくさんの人たちが殺されたし、いまでもそれで悲しんでいる人、苦しんでいる人がいます。でも、それで実際に、永遠に続く巨大なヒエラルキーは築かれたのでしょうか?いや、その巨大なヒエラルキーって、一体なんだったのでしょうか?机の上の紙の例えに戻るなら、それは、A0ぐらいの大きさの紙にかかれた、死ぬほど大きなヒエラルキーなのでしょう。でも、どんな大きなヒエラルキーでも、それを上から眺めることによって、急に色あせてしまいます。人は、どんなことをしても、人を支配することはできない。と、思うのです。

 僕は、権力が好きです。別の言い方をすれば、影響力というか。そういうのを手に入れるのが大好きなのです。それが、まあ、ある意味僕のモチベーションになっています。でも、こうやって考えてくると、「権力」や「ヒエラルキー」は急速に色あせてしまう。でも、僕の考えている権力、「僕の好きな権力」は色あせないんですね。なんか、ヒエラルキーを超越した権力っていうか。それって一体、なんなのでしょうか。

 また、ちょっと話がかわります。今いっしょに仕事をしているお医者さんの中に、かなり変わった人がいるのです。どう変わっているかと言うと「生体コヒーレンス」という概念に熱中しているんですね。「生体コヒーレンス」。聞いたことあります?僕は、その人に会って始めて聞きました。まあ、人が生物として機能するメカニズムを理解するためのアイディアの一つなんだと思います。僕もよくわかってないですけど、どうやら、「体の各部分、各細胞は、互いにゆるく何か共通の『場』のようなものの影響を受けている」ということらしいです。

 僕なりに言い換えてみると「体を構成する細胞は、いろんな話を聞きながら、なんとなく、みんながその気になって、ちょっとずつ協力することで全体として大きな仕事をする」みたいなことじゃないかなあ、と思います。つまり、細胞一個一個は、「脳に命令されてる」のではなくて、基本的に、好き勝手やってるわけです。で、そのなかで、たまに、ちょっと周りにあわせて動いてみたりする。細胞本人が意識するしないにかかわらず。でも、そのちょっとの動きのタイミングがまわりとそろったりすると、結果として何か大きい仕事ができる。と。そういうことじゃないかなあ、と思います。さらに思うのは、脳自信も、実は、自分の出した指令でなにが起こるのか、わかってないんじゃないかなあ、ということです。だって、脳にできるのは、なんとなくな「場」(雰囲気?)をちょっと変えてみることだけなわけですから。さらにいえば、脳がどう判断するのか、ってことすら、脳以外の細胞たちが分泌したホルモンで、なんとな~く揺らいでいるわけです。

 実は、この「なんとな~く」って僕の考えている権力そのものじゃないかなあ、と思います。

ちょっとずれますが、僕の権力志向の原点は、たんなる「目立ちたがり屋」じゃないかと思うのです。人目につきたい、人に話を聞いて欲しい。しゃべって、しゃべって、しゃべって、しゃべりまくって。実際、子供の頃、「こんな良くしゃべる子供、将来どんな大人になるの?」と、母親に言われてしまったこともあります。(こんな大人になりました♪)

 そして、目立って、しゃべって、逆に、いろんな人の話しも聞いて。そうこうしているうちに、たくさんの人たちが、僕の考えていることに、なんとな~く、影響を受けるのじゃないかと、そして、僕自身も、たくさんの人たちから、なんとな~く影響を受けてるのじゃないかと。そして、その なんとな~く の影響そのものが、実は権力ではないかと思うのです。

 もちろん、この方法では人を支配することはできません。でも、なんとな~く影響を受けたり与えたりってのは、実は、数少ない、ヒエラルキーを超越した力なんじゃないかな、と思うのです。

 また話は変わります。先週、と、ある用事で韓国に行きました。そこで光州科学技術院(GIST)の学生達(僕と同世代です)と飲んで話して話して話す機会がありました。たくさんの学生たちが僕と同じ分野で研究をしています。ゆっくり話をしたのは今回が初めてだったけれど、いままでも実は、論文や学会で互いのやってる仕事、技術を知ってるんですね。で、互いの作った技術を真似したり真似されたり、肯定したり否定したりしながら、みんなで「いい光断層装置」を作っていくわけです。それまで彼らと多くを話したことはなかったけれど、僕たちはすでに互いに影響しあっていたわけです。「論文」という「言葉」を通じて。

僕たちCOGがしてきた仕事は彼らに影響を与えていたし、彼らの仕事は僕たちに影響を与えていました。それは技術だけに限ったことではなくて。自分たちがどの分野を学ぶかとか、どの道に進むかとか、結局は、どう生きていくのか、とか。僕たちは住んでいる国も違うし、互いに違うヒエラルキーの中にいるはずなのに、影響しあっていた、と、いうことだと思います。

こなんな「なんとな~く」な影響力では誰かに命令することもできないし、誰かを意のままに動かすこともできないし、それどころか、自分が逆に影響を受けちゃったりもするのですが、でも、それこそが、「僕の好きな権力」なのかなあ、と、そういう風に思うのです。

 そろそろ散らかした話をつなげて行きましょう。

アジアの「経済・通貨の統一」とか「統一政府の樹立」って、ほんとに必要なのでしょうか?必要なのかもしれませんし、必要ないのかもしれません。

 たとえば、じゃあ、統一政府を樹立したとして、その次にあるのは?言語の統一?生活様式の統一?愛国心の統一?それって、どこかで聞いたことありますよ。ついこないだまで、僕の生まれた、そして、いま住んでいる国がやろうとしていたことです。でも、それって、結局みんなを幸せにしたのでしょうか?まあ、普通に考えればしてないでしょ。僕自身も、してないと思います。実際、未だに、その時代に日本がしたことのせいで苦しんでいる人はたくさんいます。

 じゃあ、僕たちは、言葉や生活を共有することはできないのでしょうか?

先週、僕が光州科学院の同世代の人たちと呑んでた時、別に言葉の不自由感じませんでしたよ。だって、みんな英語しゃべれるし。学生の中には、日本語知ってる人もいたし、僕も子供の頃、ちょっとだけ韓国語勉強したことあるし。

食事にも生活にも困りませんでしたよ。普段から日本で韓国料理食べること多いし。韓国でも日本でもいたるところにロッテリアあるし。コンビにだってあるし。同じようなものを売ってるし。呑んで盛り上がってくると、同じアニメの話に花が咲くし。なにより、今のままでだって、僕たちはエンジニアとして、同じ技術の基盤を共有して対等に話をすることができます。なんか、もう、これでよくね?

 繰り返しになりますが、通貨の統一とか、統一政府の樹立とか、必要で無いかもしれないし、必要なのかもしれません。でも、それは、結局、それぞれの人と人の互いの影響と信頼が発展した結果でしかないのではないでしょうか。ヨーロッパにユーロが導入されたから、ドイツとフランスが和解したわけではないでしょう。互いにたくさんいろんなことを感じて、話し合って、影響を受けあって、それで初めて「俺ら、通貨統合してもよくね?」となったんじゃないかなあと、思います。「フランスの中央銀行とドイツの中央銀行、統一してよくね?ヨーロッパの統一中央銀行、別にフランクフルト(ドイツ)でよくね?」と[6]。

 将来、アジアは、互いにもっと近づいていくと思います。でも、それは、どこか、だれか、強い国や人が、力ずくでやることではないのではないかと思います。たとえそれが正義感なんかからくるのだとしても。ヒエラルキーの中で発せられた言葉は、そのヒエラルキーの中でしか響かない、ということかなあと思います。

じゃあ、どうしてアジアの国は、人は、互いに近づいていくのか?それは、「僕がそういうから」なのです。

エンジニアとして、いろんな国のエンジニアとたくさん話をして僕が思うこと、それは「アジアの人たちは、少なくとも、僕たちアジアのエンジニアの間の距離は、近い将来にもっともっと近づく」ということです。確実に近づきます。もっと近づきます。もっと近づく、もっと近づく、もっと近づく、もっと近づく。ね、なんとなく、そうなる気がしてきたでしょ?根拠なんてなにもなくても。それが僕の持っている権力。

なんとな~く、人を動かすことのできる力です。

2007/12/09
Joschi

最後に:かつて、この「なんとな~くな権力」を、意図的に利用して巨大なヒエラルキーを作った国、作った人たちがいました。真理は、それを手に入れようと組織を作った時点で真理ではなくなってしまう。クリシュナムルティーも言っていました。なんとな~くな権力は、無力だからこそ権力なのです。

[1] 三重(すくなくとも津)の子供言葉で「非常に」の意味。個人的に勝手に「滅去」の字をあてたりしています。(意外と本当に仏教の経典かなにかが語源なのかも…)
[2] まあ、それぐらい近い存在だから何度も戦争したのでしょうが…
[3] 実際は、この三次元空間での「上」を内包する四次元空間を仮定した時点で、この「三次元内部の上」の概念も消失してしまうわけですが。この入れ子状の相対的な構造が、また、面白く、そしてなんだか幸せな気分にさせてくれますね。
[4] なんか阿Q聖伝みたいですね…
[5] この人たち、ほんとは気付いてるんだろうなー、と思うこともあります。なんせ、ヒエラルキーの相対化なんて、僕でも気付くことですから。でも、まあ、頭のいい人たちにとっては暇つぶし程度なのかもしれません。ヒエラルキーの「はしっこ」をめざすなんて。僕がこのブログを書いてるようなもんですね。(←実は、この一言、今回の記事の本質なのですが、それはこの記事を最後まで読んで感じてみてください。)
[6] まあ、当然、細かい権力バランスとか、経済的な理由とかあるのでしょうが、でも、意外とそれって、人の気持ちの流れのつじつまを合わせるための技術にしかすぎない気がします。だって、経済のことを考えるなら、なんで、ドイツってあそこまで劇的で、負担の大きい再統一を行ったのでしょうか。

2007年11月26日月曜日

カメとアリ vs ウサギとキリギリス

最近また、ジョギングを始めました。仕事柄、普通に生活していると全く体を動かさないんです。で、なんか最近、あからさまに体力が落ちてきて、仕事の持久力もつられて落ちてきて、どうしもなくなってきたんですね。で、まあ、このままでは、やばい。と。

昔は毎日走ってたんですよ。なんとなく。まあ、若かったんでしょうね。元気が有り余っていたというか。元気は有り余ってるのに、何していいかわかんなかったし。まあ、暇にまかせてぐるぐるぐるぐるやっているハムスターみたいなもんです。

で、一月ほど前にジョギングを再開して、それからしばらくして気付いたんです。ジーンズがきつくなってきたんですよ。ゆるくじゃなくて。きつく。

でも、ウェストが、じゃないですよ。ふくらはぎのところです。ジーンズを脱ごうとすると、引っかかるんです。ふくらはぎに。太くなってるんですね。そう、そういえば、そうなんですよ。思い返してみると、昔、毎日走ってたころも、ふくらはぎ、めちゃめちゃ太かったんです。

ほら、ガンダム(初代)の足って、ふくらはぎの後ろに、ぼこっ!となんかついてるじゃないですか。プラモ作ったことのある人は知ってると思うんですが。なんか、ついてるんですよ。ぼこっと。あれ、筋肉なんですね。毎日てくてく走ってると、ああいう風に、ぼこってつくんですよ。みんなで温泉に行ったりすると「安野、そのふくらはぎ、おかしくねえ?」って言われるくらい、ついてたんです。昔は。他には筋肉ついてないのに、ふくらはぎと太ももだけ。

そんなふくらはぎも、今の怠惰な生活の中でいつの間にか、ほっそりした普通のふくらはぎになっていたわけです。

でも、最近、ジョギングを再開して、また、ぼこっとなってきたんですよ。ガンダム脚。別に筋トレも何もやってなくて、ただ、毎日淡々と(しかもかなりスローペースで)走ってるだけなんですが。でも、まあ、仕事の忙しかった日も、疲れてる日も、出張帰りも、一杯呑むのを我慢して帰ってジョギング。それからやっと、発泡酒(糖質オフ)です。

別にすごいことはしてないんだけど、毎日毎日やってるわけです。ばかの一つ覚えみたいに。

全然話は変わるのですが、今、出張にきてます。なんか、お医者さんの学会。この学会、自分の中ではかなり実りの多いものでした。最近行き詰まりを感じていた学会パフォーマンスも突破口が見えてきました。そしてなにより、ここ1, 2年、ずっと感じ続けていた、特にこの春あたりから強く感じ続けていた違和感に、かなり劇的な形で回答がでました。なんか、「気付いた」んですね。答えは前から目の前にあったのに、ずっと見えていなくて、それに気付いた、という感じです。

なんか、まあ、どってことはないのですよ。でも、なんか、2年に一回ぐらいあるんですね。こういう事が。「転機」というか、「小悟」というか。悩みの袋小路からの脱出!みたいな。まあ、こうやって袋小路からでてきても、また、すぐに別の袋小路にはまるだけなんですが。それにしても、やっぱり、気持ちのいいものです。なんか、答えに気付いたとたんに、世の中の全てが新しく見えるんですね。なんか、宗教みたいですけど。別に、宗教ではないです。自分、普通に、信仰心の極めて薄い仏教徒ですから。

何に気付いたのか。まあ、うん。非常に説明しにくいのですが、なんとなく、書いてみます。

アリとキリギリスってあるじゃないですか。ウサギとカメでもいいですけど。子供のころに、みんな何度か聞かされた話だと思います。まあ、細かいストーリーの違いはあるけど、どっちの話も「こつこつやってる奴が最後は成功する」って話。これ、子供の頃聞かされた頃にはなんの疑問も持たないんですね。絶対的な正解、という気がするんです。

でも、絶対的な正解、なんてないんですね。大人になってきて、いろんなことがあると、何事にも例外があることに気付くわけです。で、いままで絶対的な正解だと思ってたことが実はそうじゃない、ということに気付くこともあります。で、一つ一つそういう絶対性を否定して、ちょっとづつ頭が良くなっていくわけです。

その「絶対性の解体」、時には行過ぎることって、あるんじゃないでしょうか?頭良すぎる人(正直な表現をすれば中途半端に頭のいい人)に限って、そういうの全部解体して、理解したつもりになってるんじゃないかと。

小学校高学年とか、中学校ぐらいになってくると「要領」という言葉を良くきくようになります。親とか先生とかに言われたりするんでしょうね。「もっと要領よくやりなさい」とか「あの子は一生懸命やってるのに要領が悪いから成績が伸びない」とか。で、高校受験、大学受験なんか、まさに要領競争です。限られた時間で要領よくいろんな知識を手に入れていく。そういう競争ですね。(ちなみに、これ、「知恵」ではなく「知識」ってところ、一つのポイントだと思うのですが、それは、また、そのうち書きます。いつになるかわからないけど)

子供の頃は、アリとかカメとか、要領は悪いけど一生懸命やってたやつが偉かったんですよ。それが、なんか、いつの間にかキリギリスとかウサギとか、そういう要領のいい奴が偉いみたいになっちゃってるんですね。不思議と。ここまで急激な価値観の転換。急に言われれば「え!?昨日といってたことちがうじゃん!」と思うと思うのです。でも、何年もかけてじっくりすりかえられると、気付かないうちに、180度価値観がかわってしまうのだと、そう思うわけです。

子供にはこつこつやれ、大人は要領よくやれ、てなわけです。でも、どこからが子供で、どこからが大人なのでしょうか?別の言いかたすれば、子供ってのは誰からみた子供なのでしょうか?

アリとキリギリスも、ウサギとカメも、こつこつやらないと将来困るよ、って話なわけです。て、ことは、将来のあるやつ=子供、将来のないやつ=大人。ってことだと思うのです。て、ことは…まあ、結局、自分には未来がある!と思ってるうちは、こつこつやるしかないのではないか、と。そんな風におもうのです。

別の例を一つ。M&Aってあるじゃないですか。企業の合併+吸収。まあ、最近はメーカーでもなんでも、無い技術は買ってくればいい、てな感じですね。

実は、ここ数年、大学の研究グループでも、そういう考え方はありなのではないか、と考えていたのです。まあ、技術を買ってくるというよりは、予算を集めて、ごっそり技術のある奴を引き抜いてくるわけですね。それこそグループごと。わりとうまく行くんじゃないか、と。

で、まあ、こそこそいろいろ試してみたんですが…うまくいかないんですよ。自分たちもうまくいかなかったし、他の大学やメーカーがやってるの見ててもダメですね。まず、引き抜くべき人がいません。たいてい、はずれしか見つからなくて終わりです。下手にネームバリューがあるところがそうやって技術屋集めると、さらに悲惨ですね。一応人はあつめられんですが、まあ、そうやって名前であつまる技術屋って、モチベーションも低いし、技術も××なことが多いし。まあ、本当は違うのかもしれませんが、なんか、俺から見ると、一生懸命やってる人は居ないように見えます。全員ではないんでしょうが。集めたほうは人材を集めたつもりなんだろうけど、こっちから見てると、逆に、無知をいいことにたかられてるように見えます。人間って、結構人間を見る目があるのですよ。

結局、いい仕事をしようと思ったら、近道なんてないんですね。自分の手でこつこつこつこつ、積み重ねていかないと。

またちょっと別の話。最近、僕のいるCOGという研究グループも一部のニッチな業界で名が知られてきたようで、たまに、新しいデバイスの評価を頼まれたりもします。こないだも、評価を頼まれた新しいデバイスを使ったOCT装置を作ってました。まず、とりあえず眼底がとれるようになって、感度も 93 dB でてる。そこでやめちゃったんですね。装置の作成を。で、担当者は論文を書き始めたわけです。

でも、理論的に今の構成で出る感度を計算すると、実は、100dB なんですよ。でも、93 dBでやめちゃった。すごくロスがあるのに。-7 dB もロスがあるんですよ。どこかに。でも、突き止めない。

これ、まずいと思うんですよね。だって、こういう仕事して、自分たちの手元に残るのは「感度 100 dB 出るだけの性能を持ったデバイスを使って、確実に 100 dB 出すOCT装置を作る」って技術だけです。それは、自分たちがこつこつ積み重ねて手に入れてきた技術です。人に教えてあげることはできるけれど、その技術を作った、という積み重ねは決して誰に取られることも無いし、どこかに消えてなくなることもありません。

新しいデバイスを使えば、そりゃ、古いデバイスに比べて性能は上がるんですよ。論文も書けるかもしれません。でも、それって、僕たちの成果じゃないでしょう。デバイス作った人たちの成果です。デバイス作った人たちは、こつこつ積み重ねてそのデバイスを作ったのです。だから、そのデバイス作った人たちは、そのデバイスを引っさげて、この先の未来、なんだって出来ます。でも、「感度 100 dB 出せる装置をつかって感度 93 dB の装置を作る技術しか持っていない」僕たちには、未来なんてないのです。

アリが一生懸命デバイスを作るのを、笑いながら見てたキリギリスは、冬になったらどうしようもなくなってしまうのです。

いやですよ。そんなの。で、今はなんとか100 dB だすようにがんばってます。論文になってしまえば、「感度を計測したところ 93 dB であった」と書くか「感度を計測したところ 100 dBであった」と書くかだけの違いです。でも、それが、グループが一歩、一歩だけですが、でも確実に一歩、先に進むかどうか、ということなんだと思います。

またまたちょっと違う話。高知大学に「室戸完歩」というイベントがあります。24時間以上かけて、高知市の高知大学から、室戸岬まで、およそ 100 Km、ただひたすら歩くのです。徒歩で。

10年ほど前、当時高知大学にいた友人に誘われて、僕も歩いたことがあります。ひたすら歩いてると、だんだん絶望してきます。どれだけあるいても、室戸岬なんて、近くもならない。でも、真夜中に、暗い道をとぼとぼ歩きながら思うのです。どんなに理屈をこねても、歩かないと、ゴールしない。結局、自分たちに出来るのは、歩くことだけだなあ、と。

車を使うとか、電車を使うとか、いろいろ近道はあると思います。でも、ゴールしたその後に「俺は歩ききった」と、そういう自信を残してくれるのは、自分で歩いた、という事実だけなんだと思います。別に、自分で歩いたからって、なんの意味もないのですよ。車とか電車のほうが、ずっとスマートで要領のいいやりかたです。でも、それは、「その時早い」というだけで、その後に何も残してくれないと思うのです。

ジョギングだって「今日は仕事がいそがしかった」「今日はちょっと呑んじゃったから」「今日は寒いから体に良くない」とか、いろんな言い訳して、お休みする日があっても、まあ、いいんじゃないかと思います。でも、ふくらはぎが太くなるかどうかは、そんなの関係ないんですね。毎日続けたやつだけが偉いのです。

なんだかんだでいろんなものが無くなっていって、周りにいた人たちがいなくなって、最後に残るには、多分、自分がこつこつやったことだけだと、思ったりもするわけです。

話はだいぶ蛇行しましたが、そろそろまとめ。

今回、お医者さんの学会に出て、そこでの講演をいろいろ聴きました。で、いろんな事を考えました。で、結局、戻ったのは、今まで生きてきた中でも、気がつけば何度も立ち戻っていたウサギとカメの話でした。

なんだか、何年かぶりに、またこの話に戻ってきて、一気に世界が変わってしまったように見えました。今まで迷っていたのが嘘のように、単純にまっすぐな道が見えてきた感じ。

逆に、今まで、ライバルと意識していたいくつかのグループ、なんだかんだで一目置いていた人たち。その中の幾つかのグループ、何人かの人たちは、僕の心のなかで急速に色あせて、ちいさくなって、興味もなくなり、どうでもいい人たちになってしまいました。

でも、まあ、せっかく道が見えてきたので、このまま進んでみようと思います。

残念ながら、何人かのお友達とはここでお別れです。お疲れ様でした。それぞれ自分の信じる道をあるいてください。残りの皆さん、じゃあ、先に進みましょう。

ちなみに、このブログを読んで、「ひょっとして、それって、俺のとことか?」と思っている人。残念ながら、このブログを読んでいるような、そんな素敵なよくわからない人たちは、今後も安野につきまとわれて振り回されると思います。

しばしのご辛抱。

2007/11/25
Joschi