2013年4月3日水曜日

ありがとうございました

只今をもって、日本のアカデミアのありかたに対する問題提起としての48時間絶食を修了いたします。通常の仕事を続けながらの絶食は想像していたよりつらかったですが、Facebook などを通した皆様の温かいご声援のおかげでなんとかやり遂げることができました。
 この48時間、いろいろな事を考えることができました。ここで考えたことは、徐々に文章にまとめていこうと思います。
 まずは、ひとまず、皆様ありがとうございました。そして、いただきます。
2013年4月3日 午後3時 安野嘉晃

2013年4月1日月曜日

日本のアカデミアと人と人の話


 みなさんは、大学において実質的に期限付きでアカデミックな仕事をしている職員のことをご存知でしょうか。ポスドク(博士研究員)やテニュア・トラック教員がこれにあたります。私は、現状の日本のアカデミアにおけるこのようなポジションの教員・研究員の扱いには目に余るものがあると感じています。

 2000年代半ば、日本の大学は、日本のアカデミアの活性化を目指してテニュア・トラック制度というものを導入しました。これは、従来終身雇用であった大学教員に雇用期間を設け、ある期間後にその教員に終身雇用権(これをテニュアといいます)を与えるかどうかを審査する、というものでした。これは、実質的なアカデミアへの競争原理の導入です。私は、個人的に競争が好きです。尊敬できる相手と、信頼できる審判のもとで競争をすることは、自分も相手も高めてくれます。
 しかし、それは、あくまでもフェアなルールのもとでの話です。ルールのない無法地帯での競争は不毛な足の引っ張り合いでしかありません。しかし、大学における競争は、競争を主催する強者が、実質なんのルールもなく立場の弱いものを互いに競争させる、およそフェアプレーとはかけ離れたものになってしまいました。アカデミアにおける競争を無法地帯にせず、実りあるものにするための鍵は、雇用者である大学、そしてそれを運営するシニア教員が「競争とはなんなのか」を明確に意識し、「他人を競争されるとはどういうことなのか」ということを深く考え、そのことに責任を持つことであったのだと思います。
 あくまでも私個人の意見かもしれませんが、日本におけるアカデミックな競争がうまく働くことはありませんでした。実際に、ここ最近報道されることの多くなった日本のアカデミアからの学術成果の低迷がその結果を物語っています。
 表面に現れるデメリットは、この研究成果の低迷です。しかし、それと同時に、現場で不安定な立場でアンフェアな競争をしいられる教員や研究員は著しく疲弊しています。
 最初に書いたように、私は競争が好きです。尊敬できる相手と競争することは楽しくて仕方ありません。しかし、無意味に競争「させられる」ことは好きではありません。私は世の中の役に立つ仕事をするために競争をしています。決して、ニヤニヤ笑う観客を満足させるための研究者同士の殺しあいショーに出演しているつもりはありません。私が参加する競争の目的は、世の中を少しでも良くする技術を作ることです。
 もしあなたが、日本の大学において「競争をさせる」立場にあるのであれば、まず一度立ち止まって「なんのために競争をさせているのか」「競争をさせられれている人間がどのように感じているのか」「競争をさせられている人間が、あなたの事をどう思っているのか」を考えてみて下さい。我々はあなた方の奴隷ではありません。あなた方と人と人としての関係を望んでいます。
 もしあなたが日本の大学において競争することを強いられていていて、そして、それが「アンフェアなルールのもとに行われている」「競争する意味が見出が明確でない」、そもそも「自分たちを競争させている人たちが信頼出来ない」と思っているのであれば、ぜひ、声を上げてください。 私は、今の日本のアカデミアの無意味な残酷さと、無意識な無関心さに強く抗議するものです。私は、私の抗議の意志を、本日(201341日)午後3時より48時間の絶食を持って表明いたします。
 あなたがどのような立場でもかまいません。ただ、あなたがいま見ているものが、おかしいと思うのであれば、声を上げてください。私と同じように絶食を持って抗議の意志を示していただいてもかまいません。48時間が無理なら24時間でも12時間でも、一食抜くだけでもかまいません。なにもしなくてもかまいません。例えば、Twitter Facebook などで声を上げてください。あなたがもし大学で不安定な雇用を強いられている教員や研究員で、それがおかしいと思うのならば、あなたを競争させている人が信頼できないと感じてることがあるのならば、声を上げてください。あなたの氏名を名乗る必要はありません。もちろん、名乗っていただいてもかまいませんし、名前はなのらずに大学名だけでもかいまいません。まったくの匿名でもかいません。 #daigakuhunger というタグをつけてつぶやいて下さい。
 私は、人は善意で生きていると信じています。しかし、人の耳は、声を挙げない人の声を聞けるようにはできていませんし、人の善意は聞こえないものに涙できるとは限りません。 201341安野嘉晃

2012年8月15日水曜日

論文の書き方 Step-by-step

数年前から、自分自身では極力論文を書かずに、いかにスタッフ・
学生を直接の執筆者としてクオリティの高い論文を仕上げるか、という方法の構築に熱中していました。最近になって、ようやっとその手法をテキストにまとめることができました。

研究論文とはいったい何なのか
、という自分なりの議論から紐解いています。
Creative commons (自由に再配布可)で配布しますので、ご興味のあるかたはどうぞ


>> "A Card-Based Method for Scientific Paper Writing" by Yoshiaki Yasuno

※ このテキストの日本語版を作成していただける方を募集しています。ご興味のある方は安野までメールでご連絡ください。

2012年6月9日土曜日

縦糸と横糸の話: 工学と工業の関係


私は大学の工学部(正確には理国学群応用理工学類)で働いています。と、同時に、自分自身の大学人としてのキャリのかなり初期から、様々なメーカーの開発プロジェクトに参加してきました。私が大学にいて、そして、同時にメーカーとも一緒に働いてきたこの10年の間に、日本の工業をとりまく状況、特に世界の中での日本の工業の位置づけは大きく変わってしまった気がします。より明確に表現すると、日本の工業の世界的な存在感は、この10年、5年の間に急激に低下している、というのが私の感想です。

どうしてこのような状況になってしまったのか、それを考えているうちに、まず、大学の工学部の役割について考えるようになりました。そして、それを明確にするためには、工業と工学の関係、また、産業とアカデミアの関係について考えることは避けられないと感じるようになりました。そして、それらに答えを出すためには、まず、「いったい工学とはなんなのか」という根本的な問題、物事の定義の問題を強く意識する必要があると感じるようになりました。

大学で工学を教えていると、よく「その研究は応用的すぎて、わざわざ大学でやることではない(メーカーでやるべきことだ)」という意見や、「そこまで技術が完成しているのならば、いっそ起業してはどうですか?」という意見を聞くことがあります。このことが象徴するように、一般的には、大学の理学部・工学部、メーカーにおける研究・開発の関係は、「応用度」≒「実用化までの距離」という順に、次のように並んでいると考えられているように感じます。

理学部 → 工学部 → メーカー研究 → メーカー開発

しかし、本当にそうなのでしょうか。この「基礎から応用へ」と「アカデミアから産業へ」を対比するモデルは、本当に検証されたモデルなのでしょうか。私は、そのことそのものに疑問を感じるようになったのです。もし、社会の生産システム設計の根本となるモデルが間違っているとしたら、その社会が効率的に生産的になることはありません。

産業とアカデミアの関係、そして、社会における「工学という学問の位置づけ」、それらを明確にすることが、産業と教育を適切に結びつける鍵であり、そして、いつのまにかボタンを掛けちがってしまった今の日本の教育・産業を立て直す鍵なのではないかと思います。そして、それを理解するためのキーワードの一つが「工学」という言葉の定義なのではないかと思うのです。

現時点ではまだ中間的な思索の段階でしかありませんが、きょうはひとまず、ここまでの私の考えをまとめてみたいと思います。



まず最初に注目したいのは、「工学」と「工業」の違いです。とかくこの二者は混同されがちですが、実際には階層(次元)がまったく異なる概念なのではないかと考えています。実際に、日本語では近しい言葉が当てられている工学と工業ですが、英語では工学は Engineering Science、工業は Industry とまったく異なった言葉が当てられます。

同時に「工学」と「理学の」(Natural Science) に関してもその違いを意識してみましょう。 そうすると、いままで見えてこなかった社会システムのフレームワークが、少しですが、見えてきます。

まずは、工学と理学の違いについて考えてみたいと思います。一般に広く受け入れられている考え方に「より基礎的なものが理学であり、より応用的なものが工学である」というものがあります。そして、この考え方は、より単純化されて「理学の延長線上に工学がある」という「一直線上に2つの学問が前後してならんでいる」という概念で捉えられることが多いようです。(特に、工学と物理・化学のあいだではそのように考えられるのではないでしょうか。)

しかし、私はこの考え方が日本における「工学部」のありかたを誤らせたのそもそもの原因ではないかと考えています。(言い忘れましたが、私は今の日本の社会システムにおける工学部のあり方は最適ではないと考えています。工学部の大学人は無能であるとか、アメリカに負けているとかいうことではなく、日本の社会システム全体における工学部と大学理学部・産業・工業の相対的な位置関係が最適ではない、という意味です。)

もうすこし具体的な例で理学と工学の違いを見てみましょう。

例えば、電磁気学(物理学)と(古典的な)電気回路学(工学)を考えてみてください。
古典的な電気回路の考え方では、電流とはプラス極からマイナス極に流れる「仮想的な流れ」です。一方、電磁気学では、電流とはマイナス極からプラス極に流れる電子の流れです。電磁気学における電子とは「実在する」負の電荷を持った粒子です。一方、古典的な電気回路における電流とは、電気回路の振る舞いを記述し、制御するために便利な「仮想的な流れ」、つまり、概念です。
よく、高校の物理の授業などで「電流の正体は電子の流れである」と教えることがあります。これは、物理学(電磁気学)としては正解ですが、工学(電気回路学)としては必ずしも正しくありません。工学(電気回路学)における電流とは「正極から負極に流れているなにか」という概念そのものなのであり、その物理的な実態とは、本質的には無関係なのです。そして、その概念的・仮想的な電流という「なにか」の振る舞いを記述・制御するためにオームの法則やファン・テプナンの定理など様々なルールがつくられました。
つまり、工学である古典電気回路学は、まず概念として「電流」を定義し、その振舞を理解・制御するためのフレームワークを構築することで発達してきた、と考えることができます。ここでは、「電流が実際何なのか」を知る必要はありませんし、そもそも「電流」が実在する物理現象である必要もありません。(なにより、この電流と電子の流れという例では、これらの流れる方向が逆、という段階で世紀の大間違いです。)

このような例は光学においても見られます。物理(光物理)では「光」はフォトンという粒子であり、同時に波でもあります。一方、この「光」と混同されがちなものとして「光線」というものがあります。これらは、日本語で書くと非常に似た言葉になりますが、英語では light(光)とray(光線)と、まったく異なった概念であることがわかります。「光線」とは、工学の一つである古典的な光学における概念であり、アイコナール方程式と呼ばれる微分方程式の解という数学的な概念でしかありません。この光線は定義からして光とは異なったものですが、光という物理的な存在によって起こる現象の多くは光線という概念で非常にうまく説明でき、また、利用することができます(註1)。

このように見ていくと、工学とは「背景にある原理(たとえば物理的・化学的原理)とは無関係に、ある現象を統一した概念で記述し、それによって、その現象を制御・利用することを可能たらしめる理論体系」である、といえるのではないかと思います。さらに、ここでいう「ある現象」とは、必ずしも物理的・化学的な現象だけではありません。人の作った機械装置の振舞、人の集団の振舞、さらにはお金の流れなども含まれます。そして、この対象とする現象によって「システム工学」、「社会工学」、「金融工学」などの名前がつくのではないでしょうか。このように様々な細分野のある工学ですが、それらすべてにおいて、本質は、対象を体系化された手法で記述・制御することではないかと思います。

それに対し、理学とは(たとえば)物理的・化学的な現象のメカニズムを「解明」することを本質とした学問です。このように考えると理学とは「実在する事象(物理現象など)を対象相とする学問である」のに対し、工学とは「対象を限定せず、さまざまな対象を記述・制御する『概念と方法』を作りだし、その体系化を試みる学問」といえるのではないでしょうか。こう考えると、いわば、理学が縦糸の学問であるのに対して、工学は横糸の学問、ということになります。

そして、工学という横糸と理学という縦糸で作られた面の一つが「工業」ではないでしょうか。仮に、工学と理学それぞれを世界を作る1次元的な要素であると考えましょう。そして、それらはさらに「互いに直行する1次元的な要素」ということになるのではないかと思います。そして、「工業」とは、それらによって作られる2次元的な概念ということではないでしょうか。

このように考えると、今の大学が(そしておそらく社会全体が)暗黙のうちに定義している「理学の応用度をあげていくと工学」という考え方では、所詮工学は「応用的な理学」にしかならず、それはやはり、縦糸でしかありません。縦糸だけをどれだけあつめても、縦糸同士がつながらず面として工業は発達しないことになります。(次元の例えで言えば、互いに平行な1次元である理学と(今日の大学の定義する)工学では、2次元の概念である工業を規定することはできません。平行な直線二本では、面は定義できないのです。

そして、これがまさに、日本の工業力の低下の遠因ではないかと考えています。

このように考えていくと、「工学」が行うべきことも自然と見えてくることになります。工学の役割、それは「方法を体系化していく」ということです。大学という組織の目的を加味してさらにいえば「大学工学部の役割は、「方法」を理論体系化して容易に再利用可能にする」ことではないかと考えています。そして、教育機関としての工学部の役割は、その理論体系を利用できる人材を育成する、ということになるのではないでしょうか。

余談ですが、私は、大学の工学部の教員であるにもかかわらず、技術戦略やグループ運営、マネージメントに関する意見を求められることや、それに関する講演を頼まれることがあります。そのような話をした後、よく、「どこでそういうことを勉強したんですか」と聞かれることがあります。ただ、私の感覚では「物を作る方法論(つまり工学)を突き詰めて考えていたら、戦略も、運営も、マネージメントも見えてきた」という気がします。実際、私自身、OCT装置の構成を検討する際、画像処理アルゴリズムを作る際、プロジェクト管理をする際など、あらゆる場面でほとんど同じものの考え方をします。

たとえば、光断層装置の制御の際に「ガルバノミラー(電圧可動ミラー)にかける電圧の高周波成分を予めフィルターで除去することで、機械的な共振ノイズを減少させる」ことがあります。一方、プロジェクトの進捗管理の際に、技術スタッフに対して「新たに技術課題(問題)を見つけても、すぐに手を付けずに、は一旦週一回の定例ミーティングで検討してから、対応するかどうかを決定する」というポリシー設定することがあります。これらはどちらも「装置(組織)の構成要素(ガルバノミラー・人)の対応できない速さで変化する状況(ノイズ・技術課題)に対しては、わざと反応速度を遅くすることで、無意味な行ったり来たりを回避する」という、まったく同じ方法論から得られる結論です。そして、この体系化された方法論の集合が「工学」という学問なのではないかと考えています。

物を作る、ということは、一見応用度が高く専門化された狭い分野に見えます。しかし、一つの目的のために収束し、先鋭化された理論は、その後より広くあらゆる分野に応用がききます。工学者としてこれを表現するならば次のようになるのです。

光には、一旦空間的に収束すると、それによって、その後の進行方向が発散する、という本質的な不確定性があります。同様に、ある信号は自体が強く局在すればするほどそのスペクトルは広がります。仏教的な世界観では、自分自身の中の小さな世界は、その小さな極限において、広大な世界そのものとつながっていきます。それらと同じように、ある分野に先鋭化された方法論は、すべての分野に適応可能になると、考えています。


[註1] これらの電流と電子の流れの例、光線と光の例では、実際には物理現象でる「電子」や「光」と概念である「電流」や「光線」を厳密に結びつけることが可能です。例えば、電流は単位時間にある面を通過した電子の個数(電荷量)ですし、光線は波長無限小の光の振る舞い、です。ただし、今回の議論では、電流や光線の概念が、これらの物理的に正確な描写とは異なった動機で作られたことにが重要になります。

Image courtesy of FreeDigitalPhotos.net

2011年12月29日木曜日

ゲームの外のゲーム:弱者の戦略としてのゲームの解除


「クリアできそうでできないゲームと
     クリア不可能にみえて可能なゲーム
        どちらが良いゲームかは言うまでもないだろう」
                       押井守監督・伊藤和典脚本「AVALON

 生きていく上での様々な出来事はゲームに例えて考えることができます。そしてみなさんはそのゲームのプレーヤーであり、プレーヤーの目的はゲームに勝利すること、ということになります。努力に努力を重ねて社会的に高いステータスを得ることも、そういうゲームにおける勝利でしょうし、仕事の中である契約を自分たちに有利な条件で締結することも交渉というゲームにおける勝利でしょう。また、電車に乗るときに隅っこの席(私のお気に入りです)に座る、というのも、そういう小さなゲームにおける勝利条件の一つでしょう。

 ゲームの中には通常さまざまなプレーヤーが存在します。なにより、複数のプレーヤーが存在しなければゲーム自体成立しません。そして、複数のプレーヤーが存在すれば、その間には強者と弱者が生まれます。この強者と弱者はどのように決まるのでしょうか。

 一つにはプレーヤー自身の能力によって決まります。実は私がこのあと議論したいのはシステムとしてのゲームとその目的です。その視点から見た場合、プレーヤー自信の能力は個別のプレーヤーに付随する不確定要素ですから、ここでは議論の対象からは外します。また、いずれにせよ、ゲームに十分に多くのプレーヤーが参加すれば、プレーヤーの能力は統計的な分布として捉えられますから、個別に議論する必要は少ないでしょう。

 プレーヤー自身の能力の他に、ゲーム内の弱者と強者を決定する要因、それは「ルール」です。言うまでもなく、ゲームはルールの下に展開されます。ルールのないゲームはもはやゲームではないですからね。ただ、そのルールは常に公平とは限りません。たとえば、双六は明らかに先手有利ですし、よりプレーヤーの能力が重視されるチェスですら白(先手)の勝率は52-56% 50%よりも大きいという統計があります[1]。このように統計的に明らかになるようなゲーム内での強者と弱者を決定するルールの要因を「ルールの非対称性」と呼ぶことにしましょう。

 上のチェスの例でもわかるように、一見公平に見えるゲームのルールにも無視できない非対称性が存在します。まして、より複雑なルールのもとで展開されている現実社会というゲームのルールには非常に多くの、そして非常に強い非対称性が存在します。例えば、親の収入と子どもの学歴の関係なども社会自体のルールの非対称性の一つでしょう。つまり、マクロな視点で議論した際に、社会全体を含めたゲームシステムの強者を決定しているのはそのゲームを支配するルールの非対称性である、と考えることができると思います。

 社会全体をゲームだと考えた時、このルールの非対称性は時に「不平等・不公平」と表現されることがあります。この言葉は非常にわかりやすいのですが、同時にネガティブな印象がありますね。本当にルールの非対称性はネガティブなものなのでしょうか。それを決めるのは、その非対称性も含んだルールが「ゲームの目的」に対し合目的的であるかどうか、ではないでしょうか。

 さて、ここで新たな言葉を使いました。「ゲームの目的」です。一見するとゲームの目的とは勝利することであると考えがちですが、そうではありません。この文章の最初を読みなおしてみてください。勝利はゲームの目的ではなく、プレーヤーの目的です。ゲーム、特に社会的に行われているゲームには何らかの目的があるはずです。ゲームの目的という言い方が抽象的にすぎるというのであれば、ゲームの主催者、仮にゲームマスターと呼びましょう、の目的といってもいいのかもしれません。

例えば、ハイエク型新自由主義社会というルールのもとで展開されるゲームでは個人の能力を重視し、個人同士をガチで競争させることで社会・経済の発展が期待されます。そして、この社会・経済の発展、がゲームマスター(たとえば政府)の期待するゲームの目的ということになります。つまり、ゲームマスターの視点で議論するならば、ルールの良否を決めるのは、「そのルールの下でプレーヤーたちによって行われるゲームによって生起する結果が、ゲームマスターの希望と一致しているかどうか」になります。ルール自体が対称か非対称かは直接的にゲームの良否を決める要素ではありません。それでは、ルールの非対称性は無視していいものなのでしょうか。

このことを考えるために、ここまで出てきた登場人物とその強弱関係を整理してみましょう。ここまでの主な登場人物は、プレーヤーとゲームマスターです。この二者の強弱関係は言うまでもなく「ゲームマスター プレーヤー」です。そしてプレーヤーの中には能力によって決定される弱者・強者とルールの非対称性によって決定される弱者と強者が存在ます。ここでは、能力による強弱はルールの非対称性による強弱と必ずしも相関がないと仮定します。ここまで出てきた登場人物の力関係は次のようになります: ゲームマスター 強い立場のプレーヤー 弱い立場のプレーヤー。ここで、立場の強いプレーヤの中には能力的に強いプレーヤーと弱いプレーヤー両方が含まれ、立場の弱いプレーヤーにもその双方が含まれることに注意してください。
さた、この登場人物の強弱関係を理解した上で、一歩引いて俯瞰的に全体の状態を考えてみましょう。

実は、ここまでの議論はすべて、プレーヤーが既にゲームにエントリーしている、もしくは必ずエントリーすることを前提として議論されていました。この状況下において絶対的に強い立場にいるのはゲームマスターです。そしてゲームマスターはゲームのルールを作成し、ゲームの目的、つまりは自らの目的を達成します。

しかし、現実にはプレーヤーは必ずしもゲームにエントリーしなくてもいいわけです。もしプレーヤーが誰もゲームに参加しないとしたらどうでしょう。また、そこまででなくても、すべてのプレーヤーがルール上強い立場のプレーヤーとしてプレーすることを希望して譲らなかったとしたらどうでしょう。この場合ゲーム自体が成立しません。そして、ゲーム自体が成立しない以上、ゲームの目的ももちろん達成されないことになります。

それでは、どのような時にプレーヤーはゲームに参加しないのでしょうか。それは、ルールの非対称性がプレーヤーにとって許容出来る範囲を超えている時です。だれしも、あまりにも不公平なルールのもとではゲームに参加したくないものです。そして、プレーヤーがゲームに参加しない以上、上述のゲームマスターはすでにゲームマスターではなく、プレーヤーもプレーヤーではありません。つまり、この状況下においてはゲームマスター、強いプレーヤー、弱いプレーヤーの間の優位・劣位の関係は解除されていることになります。

ここまでの議論を整理してみましょう。この議論では、まず、社会で発生する事象をゲームとのアナロジーで考えてきました。その上で、社会の不平等に対応するルールの非対称性という考えを導入しました。そして、その非対称性の是非を考えるためにゲームの目的、つまりは社会の目的、という概念を導入しました。この議論の中では、ゲームを行うことの目的を「ゲーム自体の目的達成」と仮定しました。そして、上記の議論から類推されることは、強すぎるルールの非対称性はゲーム自体の目的達成を阻害するということです。

上記の議論からはもうひとつ興味深いことがわかります。それは(1)ゲームが不成立になった時点で、上述の三者の立場上の優劣が解消される、(2) そして、最弱者である弱い立場のプレーヤーは不参加という手段でゲームを不成立にすることが可能である、ということです。この考え方は、社会的な抗議活動であるボイコットやストライキの論理的側面の一つと考えることもできるのではないかと思います。

つまり、弱い立場のプレーヤーはゲームへの参加を拒否することにより、もともとの強者であった強い立場のプレーヤーやゲームマスターと対等な立場になります。そして、もし、ゲームマスターにどうしてもゲームの目的を達成しなければならない事情があるとすれば、ゲームマスターはなんらかの方法でこの事態に対処する必要があります。このゲームマスターのアクションは既に当初のゲームの中で行われているわけではありません。プレーヤーの参加拒否によって出現したこの状況は「プレーヤーがゲームマスターに対して新たなルールのもとでゲームを仕掛け、ゲームマスターはその新たなゲームに参加を余儀なくされている」と考えられるのではないでしょうか。

最後に具体的な例を考えてみましょう。若者の就労問題です。ご存知のように、最近、若者の就労率の低下が問題になっていますね。そして、政府はそれを上げるために躍起になっています。確かに、今の私の立場から見ていても、近年の若者は社会の不条理を押し付けられているように感じますし、いわゆるニートと揶揄される場合のように「だったら俺もう働かねぇ」と考えることも理解できます。そして、世間ではこの問題への対応を社会的弱者の対策という視点で捉えています。しかし、本当にこの視点で適切なのでしょうか。働こうとしない、そこまでではなくとも、社会を良くするために身を粉にしてまで働こうとしない人間には、そう思うようになったそれなりの理由があるはずです。そして、それは社会のルールの非対称性ではないか、と思うのです。つまり、彼らは「このゲームには乗らない」と宣言したということではないでしょうか。そして、弱い立場でプレーを強いられるプレーヤーが唯一ゲームマスターと対等な戦いを仕掛けられる戦法がこの「ゲームの不成立化」です。そして、上で議論したように、この状況は、ゲームマスターである政府や社会そのもの、もしくは強い立場のプレーヤーである社会的な強者が立場の弱いプレーヤーの戦術によりゲームの成立を解除され、新たなルールによってゲームを仕掛けられている、と考える必要があるのではないかと思います。

ゲームマスターの仕事はゲームを成立させることによりゲームの目的を達成することです。私はここで社会の倫理的な側面を議論するつもりはありません。私自身はエンジニアですので、社会まで含めた大きな意味でのシステムが動くかどうか、に興味があります。今日本で起きていることは、社会というゲームを支配しているルールの非対称性が大きすぎ、そのことがゲームの成立そのものを阻害している、ということではないでしょうか。この動かないシステムをもう一度動かすには、まずはより対称なルールを作成しプレーヤーを集め、ゲーム自体を成立させる必要があります。

私は平等主義者ではありません。ですので、ルールが公平であること自体に意味があるとは思いません。ルールの良し悪しは、それによって支配されるゲームが、ゲームの目的を達しうるかどうかで評価されるべきだと思います。そして、プレーヤーに興味をもたせあるゲームに参加させるようなルールを作っていくことは、それ自体がより上位のゲームなのではないでしょうか。そして、その上位のゲームの中では下位のゲームのゲームマスターも下位のゲームのプレーヤーと同じ立場の一プレーヤーであることを認識する必要があるのではないかと思います。


「クリアを拒むプログラムは 既にゲームとは言えないもの」
                                                           押井守監督・伊藤和典脚本「AVALON

追記

誤解を避けるために追記しますが、ここで私が議論したのは公平配分型社会と傾斜配分型社会という社会システム自体の是非ではありません。十分に対称なルールと考えていい野球にもコールドゲームが成立することがあります。ルールの対称性、非対称性にかかわらず、公平配分型社会傾斜配分型社会の双方が成立しうると思います。しかし、その是非はまず、ゲーム、すなわち社会そのものが成立した上での議論だと考えています。つまり、結果が傾斜配分的になるにしろ、そのプロセスを成立させるためにはある程度対称なルールが必要なのではないかと考えるのです。

最近数ヶ月、個人的に様々なことを深く考える機会に恵まれました。それに伴い、実に数年ぶりに技術以外の文章を公表しようと考えました。本当は本稿では、さらに一歩進んで強い立場のプレーヤーがそのままゲームマスターとして振る舞った場合に関する論考も行おうと考えていたのですが、その前段階の論考で 4,000 字を越えてしまいました。あまり長くても読んでいる方も飽きてしまうでしょうから、こちらの各論は稿を改めて議論したいと思います。

Reference

2007年12月10日月曜日

権力と支配の話、もしくは、無力な権力の話。

2001年の秋から、もう6年も前のことになるのですが、僕はドイツのストゥットガルト大学でコンフォーカル顕微鏡のプロジェクトに参加していました。そのおかげで、2002年のお正月、ちょうどヨーロッパの人たちがユーロ貨幣を使い始める瞬間をその場で見ることが出来たわけです。まあ、実を言うと、収集癖のある僕は、がんばって銀行にならんでユーロコインのスターターキットを手に入れたりしてたのですが…

 ユーロコインって、表側のデザインは各国共通なんです。「50セント」とか書いてあって。でも、裏側のデザインが全部の国で違うんですよ。コレクター心をメッキョ[1] くすぐります。で、やはり、今この瞬間にヨーロッパにいられる幸福に感謝するためにも「集めなきゃでしょ!」と思ったわけです。で、必死に集めたわけです。別に隣国まで遠征するわけじゃないですよ。ただ普通に日常生活を送っていて、買い物した時におつりをチェックするわけです。まだ集めてないコインがあるかどうか。で、びっくりしたんですが、なんと、ユーロ貨幣使用開始から2週間もすると、近所の国のコインが普通におつりに混じってくるようになるんですよ。シュトットガルトで。イタリアとかフランスのコインが。

コレクターとして仰天+興奮したのですが、それ以上に別の意味で仰天+興奮、いや、仰天×興奮!しました。ドイツとフランスなんて、つい最近まで何度も戦争やってるわけですよ。それが、今や、ユーロ使用開始後2週間でコインが行き来するぐらい近い存在になっているのです[2]。コインが行き来するって、貿易とかじゃないじゃないですか。「人」そのものが行き来するってことだから。

これはすごいことになった!と思ったわけです。実際にはユーロ貨幣流通の3年前から、ヨーロッパでは商取引はユーロベースで動いていたわけですが、実際に目の前に「ユーロコイン」「ユーロ紙幣」という通貨が実態として現れると人々の気持ちが違います。実際、その時僕の周りに居た人たちはみんな興奮してたし。自分たちのおじいちゃんどうしが戦争をしていた国に遊びに行くのに、パスポートも両替もいらない。その体験はすごいインパクトですよ。こりゃ、本格的にヨーロッパは一つになるな、と、そう思いました。実際、その直後には「EU憲法」なんて話も出て来ることになったわけですし。

 こりゃもう、アジアもうかうかしてられない!と思いました。僕らもなにかしなくちゃ!と。国益とかなんとか、一国のレベルで考えてる場合じゃないでしょ!アジアの通貨統一?しなきゃまずいでしょ。ヨーロッパとアメリカの経済に呑み込まれちゃいますよ。アジアは。国と国がいがみあってる場合じゃないでしょ!政治協力?やらなきゃ!やらなきゃ!

今からちょうど6年前、こういう風に感じたのです。でも、これ、本当にそうなんでしょうか。

 ここでちょっと話を変えます。

 最近、仕事の関係で、いろんな業種の人と会って話す機会があります。僕らのようなアカデミックポジションにいるエンジニア、産業界に身を置くエンジニア、大学の医局の中のお医者さん、工学部の学生、医学部の学生、メーカーの営業系の人たち、企画系の人たち、契約、法務、財務の人たち、大学を支える執行部の人たち、本部の人たち。それぞれがそれぞれ異なった世界で異なったヒエラルキーに属して生きています。(少なくとも僕にはそう見えます)。

6、7年前。僕が博士課程の学生だった頃、僕は、日本の工学アカデミズムの、しかも「光学」というヒエラルキーしか知りませんでした。で、「出世っていうのは、ヒエラルキーのピラミッドを登っていくことなのかなあ」と思っていたわけです。で、博士をとって、まったく別の国で研究プロジェクトに参加してみて、いままで知らなかったことに気付いたのです。たとえば、日本の光学の世界で大先生みたいに言われていて、無限の政治力を手にしているような人でも、例えばドイツの光学界では、何の権力も持っていません。当然と言えば当然ですが。日本が技術的に遅れているとか、そういう話ではないですよ。単純に権力の話。なんか、どうやら、ヒエラルキーって、いっぱいあるんですよ。並列に。同じようなヒエラルキーがわんさと。

 でも、これって、ちょっと考えると、変じゃないですか?ヒエラルキーって、頂点が一つだからヒエラルキーなんだと思うんですよ。頂点が一つだからヒエラルキーを『登る』ことが出来るというか。それがいくつもあったら、すでにトップもなにも無いじゃないですが。ヒエラルキーAのトップとヒエラルキーBのトップって、どっちが上の立場なの?みたいに。

 かっこよく言えば、この事に気付いた(実感した)ことは、物の見方の次元の超越だったんだと思います。今までは一枚の紙の上にヒエラルキーの図を描いて、その「上」を目指そうとしていた。そんな人が、机の上に、そのヒエラルキー図を何枚も、しかも、いろんな方向を向けて並べられて、で、それを上から眺めているような。で、聞かれるんですよ「これ、どっちが上だと思う?」って。上もくそもないでしょう。だって、みんな平らな机の上の話。ヒエラルキーAの「上」は「右」向いてるし、ヒエラルキーBの「上」は「左」向いてるわけです。それは、もはや「右」と「左」であって、「上」でも「下」でも無いわけです。しいて言えば、それを上から俯瞰している自分が「上」?みたいな感じです[3]。

 この着想を得た瞬間、「自分は無敵だ!」と思いました。いや、今でも思っています。だって、上も下もなければ、勝ちも負けもないわけで。負けたくても負けられない。生涯負けられない=無敵ですわ[4]。まあ、そこから逆に、友人をして「出世街道を逆走している」という僕のキャリアがスタートするわけですが。でも、自分としては逆走るつもりはありません。自分が自分で決めた「上」という相対的な場所をめざして進んでいるつもりです。(まあ、よくその「上」の場所が変わるのは問題かもしれませんが…)

 でも、僕の周りを見ていると、「ヒエラルキーの頂点」をめざしている人って、結構多いんですよ。優秀な人に特に多いように感じます[5]。ヒエラルキーの頂点って何があるんでしょうか?一つは、そこに登ってみないと見えない景色というのが、あると思います。でも、それは、ヒエラルキーを机に並べて眺めてしまった時点で、意味がなくなってしまうものだとは思うのですが。でも、まあ、一回ためして見ないとわからないものなのかもしれません。で、もう一つは、いわゆる「権力」というものなのかなあ、と思うのです。

 「権力」って、何なんでしょうか?たとえば、気に入らない人間を「干す」ことが出来たら、それは権力ってことでしょうか?指先を動かすだけで人が動けば、それが権力?まあ、僕自身は、そうじゃないかなあ、と考えてきました。でも、実際にそんなことってあるのでしょうか?あるヒエラルキーのトップは、気に入らない人間を、そのヒエラルキーからはじき出す(干す)ことが出来るかもしれません。で?多分その人は別のヒエラルキー移るでしょう。それだけ。例えば僕が光学アカデミズムから干されたら眼科アカデミズムに移るし、そこでも干されたら、産業界のヒエラルキーに移ることもできる。そこでも干されたら…コンビニでバイトしながら「バイトから社長」をめざせばいいのでは?と、思ったりするわけです。生きてくだけなら、なんとでもなるでしょ。自分の目指す「上」は自分で好きに決めちゃえるんだから。

立ち悪いですね。こういう奴って、干しようがないですよ。まさに無敵。そして、この程度の発送の転換をするだけで、権力やヒエラルキーは崩壊してしまうのではないか、と。そういう風に思うのです。

 でも実際、歴史的に、極めて大きなヒエラルキーが築かれた時期は、確かにあります。まだ、ほんの少し前の話。僕たちのおじいちゃんどうしが戦争をしていたころの話です。日本もドイツも、アジアやヨーロッパに巨大なヒエラルキーを作ろうとしました。たくさんの人たちが殺されたし、いまでもそれで悲しんでいる人、苦しんでいる人がいます。でも、それで実際に、永遠に続く巨大なヒエラルキーは築かれたのでしょうか?いや、その巨大なヒエラルキーって、一体なんだったのでしょうか?机の上の紙の例えに戻るなら、それは、A0ぐらいの大きさの紙にかかれた、死ぬほど大きなヒエラルキーなのでしょう。でも、どんな大きなヒエラルキーでも、それを上から眺めることによって、急に色あせてしまいます。人は、どんなことをしても、人を支配することはできない。と、思うのです。

 僕は、権力が好きです。別の言い方をすれば、影響力というか。そういうのを手に入れるのが大好きなのです。それが、まあ、ある意味僕のモチベーションになっています。でも、こうやって考えてくると、「権力」や「ヒエラルキー」は急速に色あせてしまう。でも、僕の考えている権力、「僕の好きな権力」は色あせないんですね。なんか、ヒエラルキーを超越した権力っていうか。それって一体、なんなのでしょうか。

 また、ちょっと話がかわります。今いっしょに仕事をしているお医者さんの中に、かなり変わった人がいるのです。どう変わっているかと言うと「生体コヒーレンス」という概念に熱中しているんですね。「生体コヒーレンス」。聞いたことあります?僕は、その人に会って始めて聞きました。まあ、人が生物として機能するメカニズムを理解するためのアイディアの一つなんだと思います。僕もよくわかってないですけど、どうやら、「体の各部分、各細胞は、互いにゆるく何か共通の『場』のようなものの影響を受けている」ということらしいです。

 僕なりに言い換えてみると「体を構成する細胞は、いろんな話を聞きながら、なんとなく、みんながその気になって、ちょっとずつ協力することで全体として大きな仕事をする」みたいなことじゃないかなあ、と思います。つまり、細胞一個一個は、「脳に命令されてる」のではなくて、基本的に、好き勝手やってるわけです。で、そのなかで、たまに、ちょっと周りにあわせて動いてみたりする。細胞本人が意識するしないにかかわらず。でも、そのちょっとの動きのタイミングがまわりとそろったりすると、結果として何か大きい仕事ができる。と。そういうことじゃないかなあ、と思います。さらに思うのは、脳自信も、実は、自分の出した指令でなにが起こるのか、わかってないんじゃないかなあ、ということです。だって、脳にできるのは、なんとなくな「場」(雰囲気?)をちょっと変えてみることだけなわけですから。さらにいえば、脳がどう判断するのか、ってことすら、脳以外の細胞たちが分泌したホルモンで、なんとな~く揺らいでいるわけです。

 実は、この「なんとな~く」って僕の考えている権力そのものじゃないかなあ、と思います。

ちょっとずれますが、僕の権力志向の原点は、たんなる「目立ちたがり屋」じゃないかと思うのです。人目につきたい、人に話を聞いて欲しい。しゃべって、しゃべって、しゃべって、しゃべりまくって。実際、子供の頃、「こんな良くしゃべる子供、将来どんな大人になるの?」と、母親に言われてしまったこともあります。(こんな大人になりました♪)

 そして、目立って、しゃべって、逆に、いろんな人の話しも聞いて。そうこうしているうちに、たくさんの人たちが、僕の考えていることに、なんとな~く、影響を受けるのじゃないかと、そして、僕自身も、たくさんの人たちから、なんとな~く影響を受けてるのじゃないかと。そして、その なんとな~く の影響そのものが、実は権力ではないかと思うのです。

 もちろん、この方法では人を支配することはできません。でも、なんとな~く影響を受けたり与えたりってのは、実は、数少ない、ヒエラルキーを超越した力なんじゃないかな、と思うのです。

 また話は変わります。先週、と、ある用事で韓国に行きました。そこで光州科学技術院(GIST)の学生達(僕と同世代です)と飲んで話して話して話す機会がありました。たくさんの学生たちが僕と同じ分野で研究をしています。ゆっくり話をしたのは今回が初めてだったけれど、いままでも実は、論文や学会で互いのやってる仕事、技術を知ってるんですね。で、互いの作った技術を真似したり真似されたり、肯定したり否定したりしながら、みんなで「いい光断層装置」を作っていくわけです。それまで彼らと多くを話したことはなかったけれど、僕たちはすでに互いに影響しあっていたわけです。「論文」という「言葉」を通じて。

僕たちCOGがしてきた仕事は彼らに影響を与えていたし、彼らの仕事は僕たちに影響を与えていました。それは技術だけに限ったことではなくて。自分たちがどの分野を学ぶかとか、どの道に進むかとか、結局は、どう生きていくのか、とか。僕たちは住んでいる国も違うし、互いに違うヒエラルキーの中にいるはずなのに、影響しあっていた、と、いうことだと思います。

こなんな「なんとな~く」な影響力では誰かに命令することもできないし、誰かを意のままに動かすこともできないし、それどころか、自分が逆に影響を受けちゃったりもするのですが、でも、それこそが、「僕の好きな権力」なのかなあ、と、そういう風に思うのです。

 そろそろ散らかした話をつなげて行きましょう。

アジアの「経済・通貨の統一」とか「統一政府の樹立」って、ほんとに必要なのでしょうか?必要なのかもしれませんし、必要ないのかもしれません。

 たとえば、じゃあ、統一政府を樹立したとして、その次にあるのは?言語の統一?生活様式の統一?愛国心の統一?それって、どこかで聞いたことありますよ。ついこないだまで、僕の生まれた、そして、いま住んでいる国がやろうとしていたことです。でも、それって、結局みんなを幸せにしたのでしょうか?まあ、普通に考えればしてないでしょ。僕自身も、してないと思います。実際、未だに、その時代に日本がしたことのせいで苦しんでいる人はたくさんいます。

 じゃあ、僕たちは、言葉や生活を共有することはできないのでしょうか?

先週、僕が光州科学院の同世代の人たちと呑んでた時、別に言葉の不自由感じませんでしたよ。だって、みんな英語しゃべれるし。学生の中には、日本語知ってる人もいたし、僕も子供の頃、ちょっとだけ韓国語勉強したことあるし。

食事にも生活にも困りませんでしたよ。普段から日本で韓国料理食べること多いし。韓国でも日本でもいたるところにロッテリアあるし。コンビにだってあるし。同じようなものを売ってるし。呑んで盛り上がってくると、同じアニメの話に花が咲くし。なにより、今のままでだって、僕たちはエンジニアとして、同じ技術の基盤を共有して対等に話をすることができます。なんか、もう、これでよくね?

 繰り返しになりますが、通貨の統一とか、統一政府の樹立とか、必要で無いかもしれないし、必要なのかもしれません。でも、それは、結局、それぞれの人と人の互いの影響と信頼が発展した結果でしかないのではないでしょうか。ヨーロッパにユーロが導入されたから、ドイツとフランスが和解したわけではないでしょう。互いにたくさんいろんなことを感じて、話し合って、影響を受けあって、それで初めて「俺ら、通貨統合してもよくね?」となったんじゃないかなあと、思います。「フランスの中央銀行とドイツの中央銀行、統一してよくね?ヨーロッパの統一中央銀行、別にフランクフルト(ドイツ)でよくね?」と[6]。

 将来、アジアは、互いにもっと近づいていくと思います。でも、それは、どこか、だれか、強い国や人が、力ずくでやることではないのではないかと思います。たとえそれが正義感なんかからくるのだとしても。ヒエラルキーの中で発せられた言葉は、そのヒエラルキーの中でしか響かない、ということかなあと思います。

じゃあ、どうしてアジアの国は、人は、互いに近づいていくのか?それは、「僕がそういうから」なのです。

エンジニアとして、いろんな国のエンジニアとたくさん話をして僕が思うこと、それは「アジアの人たちは、少なくとも、僕たちアジアのエンジニアの間の距離は、近い将来にもっともっと近づく」ということです。確実に近づきます。もっと近づきます。もっと近づく、もっと近づく、もっと近づく、もっと近づく。ね、なんとなく、そうなる気がしてきたでしょ?根拠なんてなにもなくても。それが僕の持っている権力。

なんとな~く、人を動かすことのできる力です。

2007/12/09
Joschi

最後に:かつて、この「なんとな~くな権力」を、意図的に利用して巨大なヒエラルキーを作った国、作った人たちがいました。真理は、それを手に入れようと組織を作った時点で真理ではなくなってしまう。クリシュナムルティーも言っていました。なんとな~くな権力は、無力だからこそ権力なのです。

[1] 三重(すくなくとも津)の子供言葉で「非常に」の意味。個人的に勝手に「滅去」の字をあてたりしています。(意外と本当に仏教の経典かなにかが語源なのかも…)
[2] まあ、それぐらい近い存在だから何度も戦争したのでしょうが…
[3] 実際は、この三次元空間での「上」を内包する四次元空間を仮定した時点で、この「三次元内部の上」の概念も消失してしまうわけですが。この入れ子状の相対的な構造が、また、面白く、そしてなんだか幸せな気分にさせてくれますね。
[4] なんか阿Q聖伝みたいですね…
[5] この人たち、ほんとは気付いてるんだろうなー、と思うこともあります。なんせ、ヒエラルキーの相対化なんて、僕でも気付くことですから。でも、まあ、頭のいい人たちにとっては暇つぶし程度なのかもしれません。ヒエラルキーの「はしっこ」をめざすなんて。僕がこのブログを書いてるようなもんですね。(←実は、この一言、今回の記事の本質なのですが、それはこの記事を最後まで読んで感じてみてください。)
[6] まあ、当然、細かい権力バランスとか、経済的な理由とかあるのでしょうが、でも、意外とそれって、人の気持ちの流れのつじつまを合わせるための技術にしかすぎない気がします。だって、経済のことを考えるなら、なんで、ドイツってあそこまで劇的で、負担の大きい再統一を行ったのでしょうか。

2007年11月26日月曜日

カメとアリ vs ウサギとキリギリス

最近また、ジョギングを始めました。仕事柄、普通に生活していると全く体を動かさないんです。で、なんか最近、あからさまに体力が落ちてきて、仕事の持久力もつられて落ちてきて、どうしもなくなってきたんですね。で、まあ、このままでは、やばい。と。

昔は毎日走ってたんですよ。なんとなく。まあ、若かったんでしょうね。元気が有り余っていたというか。元気は有り余ってるのに、何していいかわかんなかったし。まあ、暇にまかせてぐるぐるぐるぐるやっているハムスターみたいなもんです。

で、一月ほど前にジョギングを再開して、それからしばらくして気付いたんです。ジーンズがきつくなってきたんですよ。ゆるくじゃなくて。きつく。

でも、ウェストが、じゃないですよ。ふくらはぎのところです。ジーンズを脱ごうとすると、引っかかるんです。ふくらはぎに。太くなってるんですね。そう、そういえば、そうなんですよ。思い返してみると、昔、毎日走ってたころも、ふくらはぎ、めちゃめちゃ太かったんです。

ほら、ガンダム(初代)の足って、ふくらはぎの後ろに、ぼこっ!となんかついてるじゃないですか。プラモ作ったことのある人は知ってると思うんですが。なんか、ついてるんですよ。ぼこっと。あれ、筋肉なんですね。毎日てくてく走ってると、ああいう風に、ぼこってつくんですよ。みんなで温泉に行ったりすると「安野、そのふくらはぎ、おかしくねえ?」って言われるくらい、ついてたんです。昔は。他には筋肉ついてないのに、ふくらはぎと太ももだけ。

そんなふくらはぎも、今の怠惰な生活の中でいつの間にか、ほっそりした普通のふくらはぎになっていたわけです。

でも、最近、ジョギングを再開して、また、ぼこっとなってきたんですよ。ガンダム脚。別に筋トレも何もやってなくて、ただ、毎日淡々と(しかもかなりスローペースで)走ってるだけなんですが。でも、まあ、仕事の忙しかった日も、疲れてる日も、出張帰りも、一杯呑むのを我慢して帰ってジョギング。それからやっと、発泡酒(糖質オフ)です。

別にすごいことはしてないんだけど、毎日毎日やってるわけです。ばかの一つ覚えみたいに。

全然話は変わるのですが、今、出張にきてます。なんか、お医者さんの学会。この学会、自分の中ではかなり実りの多いものでした。最近行き詰まりを感じていた学会パフォーマンスも突破口が見えてきました。そしてなにより、ここ1, 2年、ずっと感じ続けていた、特にこの春あたりから強く感じ続けていた違和感に、かなり劇的な形で回答がでました。なんか、「気付いた」んですね。答えは前から目の前にあったのに、ずっと見えていなくて、それに気付いた、という感じです。

なんか、まあ、どってことはないのですよ。でも、なんか、2年に一回ぐらいあるんですね。こういう事が。「転機」というか、「小悟」というか。悩みの袋小路からの脱出!みたいな。まあ、こうやって袋小路からでてきても、また、すぐに別の袋小路にはまるだけなんですが。それにしても、やっぱり、気持ちのいいものです。なんか、答えに気付いたとたんに、世の中の全てが新しく見えるんですね。なんか、宗教みたいですけど。別に、宗教ではないです。自分、普通に、信仰心の極めて薄い仏教徒ですから。

何に気付いたのか。まあ、うん。非常に説明しにくいのですが、なんとなく、書いてみます。

アリとキリギリスってあるじゃないですか。ウサギとカメでもいいですけど。子供のころに、みんな何度か聞かされた話だと思います。まあ、細かいストーリーの違いはあるけど、どっちの話も「こつこつやってる奴が最後は成功する」って話。これ、子供の頃聞かされた頃にはなんの疑問も持たないんですね。絶対的な正解、という気がするんです。

でも、絶対的な正解、なんてないんですね。大人になってきて、いろんなことがあると、何事にも例外があることに気付くわけです。で、いままで絶対的な正解だと思ってたことが実はそうじゃない、ということに気付くこともあります。で、一つ一つそういう絶対性を否定して、ちょっとづつ頭が良くなっていくわけです。

その「絶対性の解体」、時には行過ぎることって、あるんじゃないでしょうか?頭良すぎる人(正直な表現をすれば中途半端に頭のいい人)に限って、そういうの全部解体して、理解したつもりになってるんじゃないかと。

小学校高学年とか、中学校ぐらいになってくると「要領」という言葉を良くきくようになります。親とか先生とかに言われたりするんでしょうね。「もっと要領よくやりなさい」とか「あの子は一生懸命やってるのに要領が悪いから成績が伸びない」とか。で、高校受験、大学受験なんか、まさに要領競争です。限られた時間で要領よくいろんな知識を手に入れていく。そういう競争ですね。(ちなみに、これ、「知恵」ではなく「知識」ってところ、一つのポイントだと思うのですが、それは、また、そのうち書きます。いつになるかわからないけど)

子供の頃は、アリとかカメとか、要領は悪いけど一生懸命やってたやつが偉かったんですよ。それが、なんか、いつの間にかキリギリスとかウサギとか、そういう要領のいい奴が偉いみたいになっちゃってるんですね。不思議と。ここまで急激な価値観の転換。急に言われれば「え!?昨日といってたことちがうじゃん!」と思うと思うのです。でも、何年もかけてじっくりすりかえられると、気付かないうちに、180度価値観がかわってしまうのだと、そう思うわけです。

子供にはこつこつやれ、大人は要領よくやれ、てなわけです。でも、どこからが子供で、どこからが大人なのでしょうか?別の言いかたすれば、子供ってのは誰からみた子供なのでしょうか?

アリとキリギリスも、ウサギとカメも、こつこつやらないと将来困るよ、って話なわけです。て、ことは、将来のあるやつ=子供、将来のないやつ=大人。ってことだと思うのです。て、ことは…まあ、結局、自分には未来がある!と思ってるうちは、こつこつやるしかないのではないか、と。そんな風におもうのです。

別の例を一つ。M&Aってあるじゃないですか。企業の合併+吸収。まあ、最近はメーカーでもなんでも、無い技術は買ってくればいい、てな感じですね。

実は、ここ数年、大学の研究グループでも、そういう考え方はありなのではないか、と考えていたのです。まあ、技術を買ってくるというよりは、予算を集めて、ごっそり技術のある奴を引き抜いてくるわけですね。それこそグループごと。わりとうまく行くんじゃないか、と。

で、まあ、こそこそいろいろ試してみたんですが…うまくいかないんですよ。自分たちもうまくいかなかったし、他の大学やメーカーがやってるの見ててもダメですね。まず、引き抜くべき人がいません。たいてい、はずれしか見つからなくて終わりです。下手にネームバリューがあるところがそうやって技術屋集めると、さらに悲惨ですね。一応人はあつめられんですが、まあ、そうやって名前であつまる技術屋って、モチベーションも低いし、技術も××なことが多いし。まあ、本当は違うのかもしれませんが、なんか、俺から見ると、一生懸命やってる人は居ないように見えます。全員ではないんでしょうが。集めたほうは人材を集めたつもりなんだろうけど、こっちから見てると、逆に、無知をいいことにたかられてるように見えます。人間って、結構人間を見る目があるのですよ。

結局、いい仕事をしようと思ったら、近道なんてないんですね。自分の手でこつこつこつこつ、積み重ねていかないと。

またちょっと別の話。最近、僕のいるCOGという研究グループも一部のニッチな業界で名が知られてきたようで、たまに、新しいデバイスの評価を頼まれたりもします。こないだも、評価を頼まれた新しいデバイスを使ったOCT装置を作ってました。まず、とりあえず眼底がとれるようになって、感度も 93 dB でてる。そこでやめちゃったんですね。装置の作成を。で、担当者は論文を書き始めたわけです。

でも、理論的に今の構成で出る感度を計算すると、実は、100dB なんですよ。でも、93 dBでやめちゃった。すごくロスがあるのに。-7 dB もロスがあるんですよ。どこかに。でも、突き止めない。

これ、まずいと思うんですよね。だって、こういう仕事して、自分たちの手元に残るのは「感度 100 dB 出るだけの性能を持ったデバイスを使って、確実に 100 dB 出すOCT装置を作る」って技術だけです。それは、自分たちがこつこつ積み重ねて手に入れてきた技術です。人に教えてあげることはできるけれど、その技術を作った、という積み重ねは決して誰に取られることも無いし、どこかに消えてなくなることもありません。

新しいデバイスを使えば、そりゃ、古いデバイスに比べて性能は上がるんですよ。論文も書けるかもしれません。でも、それって、僕たちの成果じゃないでしょう。デバイス作った人たちの成果です。デバイス作った人たちは、こつこつ積み重ねてそのデバイスを作ったのです。だから、そのデバイス作った人たちは、そのデバイスを引っさげて、この先の未来、なんだって出来ます。でも、「感度 100 dB 出せる装置をつかって感度 93 dB の装置を作る技術しか持っていない」僕たちには、未来なんてないのです。

アリが一生懸命デバイスを作るのを、笑いながら見てたキリギリスは、冬になったらどうしようもなくなってしまうのです。

いやですよ。そんなの。で、今はなんとか100 dB だすようにがんばってます。論文になってしまえば、「感度を計測したところ 93 dB であった」と書くか「感度を計測したところ 100 dBであった」と書くかだけの違いです。でも、それが、グループが一歩、一歩だけですが、でも確実に一歩、先に進むかどうか、ということなんだと思います。

またまたちょっと違う話。高知大学に「室戸完歩」というイベントがあります。24時間以上かけて、高知市の高知大学から、室戸岬まで、およそ 100 Km、ただひたすら歩くのです。徒歩で。

10年ほど前、当時高知大学にいた友人に誘われて、僕も歩いたことがあります。ひたすら歩いてると、だんだん絶望してきます。どれだけあるいても、室戸岬なんて、近くもならない。でも、真夜中に、暗い道をとぼとぼ歩きながら思うのです。どんなに理屈をこねても、歩かないと、ゴールしない。結局、自分たちに出来るのは、歩くことだけだなあ、と。

車を使うとか、電車を使うとか、いろいろ近道はあると思います。でも、ゴールしたその後に「俺は歩ききった」と、そういう自信を残してくれるのは、自分で歩いた、という事実だけなんだと思います。別に、自分で歩いたからって、なんの意味もないのですよ。車とか電車のほうが、ずっとスマートで要領のいいやりかたです。でも、それは、「その時早い」というだけで、その後に何も残してくれないと思うのです。

ジョギングだって「今日は仕事がいそがしかった」「今日はちょっと呑んじゃったから」「今日は寒いから体に良くない」とか、いろんな言い訳して、お休みする日があっても、まあ、いいんじゃないかと思います。でも、ふくらはぎが太くなるかどうかは、そんなの関係ないんですね。毎日続けたやつだけが偉いのです。

なんだかんだでいろんなものが無くなっていって、周りにいた人たちがいなくなって、最後に残るには、多分、自分がこつこつやったことだけだと、思ったりもするわけです。

話はだいぶ蛇行しましたが、そろそろまとめ。

今回、お医者さんの学会に出て、そこでの講演をいろいろ聴きました。で、いろんな事を考えました。で、結局、戻ったのは、今まで生きてきた中でも、気がつけば何度も立ち戻っていたウサギとカメの話でした。

なんだか、何年かぶりに、またこの話に戻ってきて、一気に世界が変わってしまったように見えました。今まで迷っていたのが嘘のように、単純にまっすぐな道が見えてきた感じ。

逆に、今まで、ライバルと意識していたいくつかのグループ、なんだかんだで一目置いていた人たち。その中の幾つかのグループ、何人かの人たちは、僕の心のなかで急速に色あせて、ちいさくなって、興味もなくなり、どうでもいい人たちになってしまいました。

でも、まあ、せっかく道が見えてきたので、このまま進んでみようと思います。

残念ながら、何人かのお友達とはここでお別れです。お疲れ様でした。それぞれ自分の信じる道をあるいてください。残りの皆さん、じゃあ、先に進みましょう。

ちなみに、このブログを読んで、「ひょっとして、それって、俺のとことか?」と思っている人。残念ながら、このブログを読んでいるような、そんな素敵なよくわからない人たちは、今後も安野につきまとわれて振り回されると思います。

しばしのご辛抱。

2007/11/25
Joschi

2007年7月31日火曜日

ベンチャーキャピタルから大学へ。直接投資って、どうでしょう。

最近漠然と考えるのですが「大学の研究室にベンチャーキャピタルが出資する」というモデルは、成り立たないでしょうか。よく、大学の研究室で成果がでてくると「次はベンチャーですか?」という話を聞くのですが、本当に必ずしも、そんなものが必要なのでしょうか。

大学での研究がある程度形になった時、ベンチャーで起業したとします。その目的は大きく二つ考えられると思います。

(1) 製品を販売することで技術を広める。
(2) 技術を販売することで技術を広める。

この二つ、ソフトウェアなどを対象技術と考えた場合にはほとんど一致すると思います[1]。しかし、ハードに関する技術の場合、この二つは純然と違った扱いをする必要があるでしょう。なぜなら、(1) には「製造」というプロセスが必須なのに対し(2) にはそれが必要ないからです。

この(1)を考えたとき初めて「大学初ベンチャー」の必要性がでてきます。なぜなら、大学は教育、研究機関です。開発と研究は不可分のものであると考えれば、開発までを大学でカバーすることは可能でしょうし、また、教育面へのリターンも大きいでしょう。しかし、「製造」となると話は違います。施設・人員まで含めて製造ラインを確保・維持する必要があるからです。リスクも当然大きくなりますし、製造ラインを維持することが必ずしも(大学の本務である)教育に直結するとは限りません。

つまり、製造+販売を目的とした場合のみ、ベンチャーの創設というのは意味のある選択なのではないかと思います。

一方、「技術」の販売を考えた場合、ベンチャーの創設はかならずしも必要ないと思います。現時点で(国立)大学は製品を販売する機構は持っていません。また、製造・販売は時として本務(研究・教育)とのコンフリクトも大きいものです。

ところが、その一方で、実は、いまの国立大学、「技術」を販売するルートは持ってるんですね[2]。意外と知られていないのですが。しかも、僕たちのような教員が、大学主体での技術を販売を行った場合、営業、契約、知財など多くの部分で大学のリソースを(格安で)利用することができます。

大学発ベンチャー、とくにその初期の規模でCEO、営業、経理などを個別に雇用する必要のあるだけの仕事が、必ずしも発生するとは限らないでしょう。でも、人は「経理 1/3人」みたいに切り身にして雇用するわけにはいきません。かといって必要な職種を一人ずつ雇ったりしたら組織が無用に大きくなります。なにより、人件費がしゃれになりません。

大学の研究室の予算で年間一億といえばちょっとした額ですが、ちょっとした会社でも年間売り上げ一億っていえば「はあ、意外と売れてるんですね」という規模ですよ。うちの実家の料理屋ですら年間一億以上の売り上げがありました。つぶれましたが。

つまるところ、年間一億ぽっち売り上げても、それで社長、営業、経理なんか、会社を「回す」ためにリソースを裂いていけば、たぶん、開発にかけられる人件費、経費はほとんど残らないと、そういうことだと思うのです。小さい組織が攻撃的に生き残るためにはイノベーションを続けていくしかない、ところが、一旦会社組織なってしまうと、勢力の大半を非イノベーションな部分に裂かれてしまうことになるのではないかと。多分、組織がもっと大きくなると、今度はちゃんと会社組織になっているほうがイノベーションに回せる戦力とその効率は上がると思うのですが、なかなかその閾値を超えるところまではいかないと思うのです[3]。そういう意味で、いま世に出ている大学初ベンチャーのかなりの数は、実際は「大学ベース」でやったほうが効率的だと思うわけです。

もちろん、大学ベースではまだ、いろいろとできないこともあります。なにせ国立大学は所詮文部科学省の飼い犬。独立行政法人だなんだと威勢のいいことを吠えてみたところで、文科省様が骨を投げれば尻尾を振っておいかけます。この悲しい習性のために、時として、びっくりするぐらい非合理的なことをやります。予算が繰り越せなかったり、会計監査にびくびくして無駄金をつかったりします。そしてこれが時には、グループ運営の致命傷になったりもするわけです。でも、まあ、目をつぶって取引するくらいのうまみは、あると思うのです。

こういう風に最近の状況をまとめていて、ふと、あることに思いあたりました。まず、前提として、上に書いたように、大学は儲かります。税金で雇ったリソース使えまくれますし、それでヒリヒリするくらいの研究開発をすれば、そこで揉まれた学生も一線の技術屋としてどんどん育って次の技術(飯の種!)を作っていきます。

こんな金の玉子を産む組織、ほうっておく手はありません。あとは、上に書いた大学の限界を解決すればプラチナの玉子を産んでくれます。じゃあ、どうやってさっきの問題を解決すればいいのか。ベンチャーキャピタルの資金を突っ込んで見るってのはどうでしょう。その資金で学生・ポスドクを雇用し、研究開発を行えば、非税金系の資金ですから、会計監査にどうこう言われる筋合いはありません。投資した資金は技術移転(技術販売)を中心に回収していく。そういうストーリーは考えられないでしょうか。

たしかに、会社組織で大規模にやるよりも売り上げは少なくなるかもしれません。でも、大学の管理組織をうまく利用すればその分の経費が圧縮できます。また、大学の組織が使えない程度のレベル(練度)しかなければ、逆に組織のその部分をベンチャーキャピタル主導で作りかえればいいのではないかと、そう思うのです。

資金運用も財務会計も、これを機に、民間の技術導入して作り変えちゃえばいいのです。大学全部がむりなら、中国の中の香港みたいに特別区にして、ある研究室だけ、ある部署だけ民間ノウハウによる大改編。国立大学って言ったって、すでに独立行政法人。いつまでも文科省は守ってくれないし、あんな何もできないダメ親の顔色なんて見て無くても いいと思うのです。勝手に部分独立です。大学の一部を独立組織に!

あ、これ、大学発ベンチャーか…

いやいや、あくまでも大学の中でやりましょう。だって、本当にやりたいことは、大学からスピンアウトすることではなく、技術の根幹を支える(はずの)大学を作り変えることだからです。

Joschi

[1] 実際には、ソフトウェアの場合は (1) サポートを販売する (2) ソフトを販売する、のように対象が変化するという見方もできると思いますが、それはまた別の話。

[2] ただ、交渉のノウハウが無いので買い叩かれてしまうことは多いようですが…。

[3] 中には、一人でなんでもできてしまう「天才的な若者」っていうのがいて、そういう人間はベンチャーで成功したりするんだと思います。でも、天才的な特異点に依存した組織が大きくなる場合には、その特殊な人材(しかもそれは有限なリソースです)に依存しているということ自体が限界になるのではないかと思います。

2007年7月18日水曜日

非暴力・服従という闘争

僕自身は、正直、今の職場の環境に対して、目くじら立てて騒ぐほどの不満は持っていません。多少の不満はあっても、することしてればきちんと研究はできるし、いろんなことを試してみる自由もあります。

でも、このまま諾々と進めていては、僕のいる大学の組織はいつか死に絶えていくのではないかと、そういうふうには思います。だからやはり、何かを変えていこうという、今の状況に対する闘争は必要だと思うのです。

かといって、学生たち、教員、職員が、てんでばらばらに組織に対して抵抗を始めれば、大学はすぐに死んでしまうかもしれません。(個人的には、そういう混乱から起死回生の策が生まれるという気もしないではないですが、死んでしまうリスクも高いでしょう。)

数年前までは、僕自身、今よりだいぶとんがっていたので、すべてにおいてすべからく暴力・不服従ばりばりの闘争方針でした。(あ、もちろん、実際に殴るわけではなくて、攻撃言論ということですよ)、だんだん年をとってくると、攻撃言論もつらくなってきます。で、最近は闘争方針を非暴力・不服従に変えていこうとしていました。特に言論攻撃を行うわけではなく、納得のいかないことには一切従わないという闘争方針です。

ところが、最近、さらに年をとって、不服従というのも骨が折れるようになってきました。それよりなにより、不服従に一生懸命になっていると、本業の研究開発が進まないのですよ。それで税金を無駄遣いしたりした日にはそれこそ本末転倒です。

それで、最近、新しい闘争形態として「非暴力・服従」というのを考えるようになりました攻撃的な言論・発言もしないし、人のいうことには服従します。じゃあ、なんでそれが闘争なのか。非暴力・服従闘争のポイントは一つだけ。どんなに服従しても「いや、まあ、命令であればやりますけど、自分はそれは間違ってると思いますよー」ということだけは、きちんと表明しようと、そういう闘争です。

最初にも書いたように、今の大学組織が、服従することすら問題なような、そこまでの状況ではないと思うのです。今、眼の前にある問題の数々にしたって「これに服従することで研究・開発ができて、さらに、それによって次の世代の技術屋が育つのであれば、まあ、眼をつぶって取引しようか」という、そういうグレーゾーンなのです。

でも、このまま、いつまでもこのグレーゾーンに続けては、いつかは組織はだめになっていくのではないかと、こうも思うのです。

だから、どんな変な条件にも対しても、それに眼をつぶって取引するのはよくないと思うのです。なので、まあ、半眼をぐらいで取引しようかと。

僕は基本的に利益至上主義なので、目の前にある利益はいただいちゃって、その上で、隙間を埋める闘争を、自分に対して嘘のないように進めていこうかと、こういうことを考えています。

Joschi

2007年6月28日木曜日

メモ:大学人と研究

今日、と、ある学内会議で議論をしていて、次のような感じのことを言われました。(あくまでも「ような感じ」のことであって、そのものずばりの表現ではありません)
「(大学の先生にとっての)研究は、趣味のようなものであって、仕事ではない」そうです。だから、職務遂行のための費用が完全に支給されなくてもしょうがないらしいです。あ、研究は「趣味」なので「職務」ですらないですね。

大学の先生たちはみんないい大学を出て頭がいいので、非常に理にかなった立派な事をおっしゃいます。でも、今の日本の大学がここまで世界からも産業界からも相手にされず、この体たらくに陥っているわけですから、たぶん、その理屈はまちがっている、と、思うのです。どんなに立派に見えても、間違っているのだと。だから、正直、僕は、その理屈のほころびを探すことにも、自分自身が完璧な論理を唱えることにも興味はありません。理屈なんて、なんとでもこねられますから。

だから、大学人にとっての研究が「職務」であるのか「趣味」であるのか、理屈をこねるつもりはありません。僕はただ、単純に、アマチュアと机を並べて仕事をする、今の環境に気持が萎えるのです。

研究が僕のいるこの職場の仕事でないのなら、もっと世間に対してちゃんと宣伝してくれればよかったのに、と思います。「この大学では研究は教員の趣味として行われています」と。

そうすれば、研究をしっかりしたいと思っている学生が間違ってこの大学に入ってくることもありませんし、しっかりとした良い研究をしたいと思っている人間が間違ってこの大学に就職することもないでしょう。

プロ意識のない人間と仕事をすることほど、つまらないことはありません。

Joschi

追記

僕はいままで5年間周りを見てきて、僕の周りの大学の先生たちにプロ意識がないとは思いません。でも、やはり、新人の僕としては、先輩である先生たちに、大学で研究を行うものとして、意地を張ったかっこいい意見を聞かせてほしかった、と思います。

メモ:

最近、このブログ、記事一個一個がインフレ的に長くなるにつれ、更新間隔があくようになってきました。そこで、記事が「記事」としてまとまるまえに、ちょこっ、ちょこっと見たこと、聞いたこと、感じた事を「メモ」として書いていこうと思います。メモで書いたことはそのうち「記事」になるかもしれません。その時、より多角的にものごとがとらえられるように、メモにコメントとかつけてくれると嬉しいです。

Joschi

2007年6月11日月曜日

価値観と階級の崩壊、つまりは h-index と「教授 >> 助手」の話

新しい価値観が生まれると、世界が大きく変わったりするものだと思います。いや、たぶん、より正確に言うなら、客観的な世界そのものが急激に大きく変わるわけではないのでしょう。でも、その世界を認識しているのが人の心で、そして、より本質的な「世界」は、やはり人の心に映る投影だとするならば、新しい価値観は急激に、そしてその本質的な世界を変えていくのでしょう。そして、そういう心象的な世界の変化はゆっくりと、でも確実に物質的な世界を変えていくのではないかなあ、と思います。

以前このブログで Hirsch の h-index というのを紹介しました。「他の論文からどれぐらい自分の論文が引用されているか」という情報を分析することで、研究者の業績を客観的に評価する手法です。この手法、初めて聞いた時は「ああ、こりゃ、頭のいい方法だなあ」ぐらいにしか思わなかったのです。でも、その後いろいろ考えるにつれ、この h-index大学というアカデミズムの階級社会の構造を根本的に書き換えるような、そんなインパクトのあるものではないかなあ、と思うようになりました。

みなさん信じるかどうかは別として、僕の理解では、大学というのは巨大な階級社会です。教授 > 助教授(準教授) > 講師 > 助手(助教)> 学生 という厳然とした階層構造が存在します。いや、別に、「教授の独裁体制がある!」とか「学生が虐げられている!」というわけではないですよ。そういうことも有る所には有るのでしょうが、僕自身は今の職場でそういうのは感じません。ただ、やっぱり、階級社会自体は、厳然とある、と感じるのです。

たとえば、筑波大学の場合、講師と助手の給与体系はほとんど同じです。でも、講師には学長選の投票権があって、助手にはありません。つまり、助手には、自分のボスを選ぶ権利はなく、講師にはあるのです。人にとって、誰を大将とするかってのは、自分自身の尊厳にかかわる大問題です。でも、助手はそれに口さえ出せないのです。

また、教授と助手では出張の宿代なんかも違います。教授の上限のほうが助手のそれより高いのです。ただし、微量。その上限が上がったからと言って、別に一ランク上のホテルに泊まれるってほどではありません。それでも、助手や学生のやる気をそぐには十分です。まあ、僕が勝手に思うに、なんというか、ステータスなんですね。教授 >> 助手、みたいな。

でも、なぜか、大学人というのはこのステータスを目指すのですよ。がんばって出世して最後は名詞に「教授」と書こうと。で、その肩書きを得るためには、いろいろと、納得のいかないこともやらないといけないわけです。やりたくないこと、じゃないですよ。納得のいかないこと、です。

ここ、ちょっとややこしいですが、「やりたくないこと」は、嫌な仕事です。嫌でも、誰かがやらないといけない仕事ってありますし、嫌でもきちんとやらなきゃ自分自身も成長出来ない仕事ってのもあります。そいういうのが「やりたくない仕事」。例えば、自宅の掃除とか…

で、「納得のいかない仕事」は、自分自身は「こんなことをやってはいけない!」と信じている仕事です。たとえば、自分はそうは思ってないのに、国に出す報告書に「ある意味世界一」みたいな事を書いたりする仕事です。他には「大学のこの決定、おかしいでしょ?」と思っても、文句をいわずにそれに従ったりする仕事。

この納得のいかない仕事、僕はほんとに嫌なんですね。まあ、性格が不便にできているんでしょうが、なんど挑戦してもできないのです。だいたい周りと喧嘩になります。でも、そこは大人。そのへん飲み込んでいかないと大学では出世できないのです。僕は基本的に俗人なので、やっぱ、ステータス欲しいです。だから納得のいかない仕事もせざるを得ないのです。得ないのですが…、やっぱいやだ!と、なるわけです。

まあ、安野を知っている人はみんな気づいているでしょうから、ぶっちゃけてしまえば、僕自身「教授」なんて「階級」は全然尊敬していません。もちろん、尊敬している人が教授だった、ということはよくあります。自分が師匠だと認めた人は、たとえそれが教授だろうと、やっぱり尊敬してしまいますし、直接いろんな事を話した人は、たとえそれが教授だろうと、やっぱり、一目おいてしまったりもします。でも、別に教授だからといって人を尊敬することはありません。むしろ、幼少期の教育の賜物で、大学の先生、というだけで「ああ、あの世間知らずなイケてないおじさんね」と、まず自分より一段格下に見てしまうところまであります。これが僕が育った環境「飲み屋街」での大学の先生に対する評価でした。「先生様」「先生様」と言い気にしておけば、すぐに丸めこめる程度の、まあ、何というか、世間で一番騙しやすいうぶな人種です[1]。

だから、矛盾だったのです。自分が働いている世界でステータス築こうとすると、自分が馬鹿にしてる階級にならないといけない、そしてなにより、そのためには「納得のいかない仕事」をしなければならない。いや、むしろ、僕が大学の先生を、大学の先生というだけでまず小馬鹿にしたりするのは、彼らが僕の思う「納得のいかない仕事」をしている人たちだからでしょう。

なんというか、まあ、完全に矛盾・閉塞した状況です。

でも、そんな不便な状況を一気に解決する方法があるのです!それが「ステータスを作っている価値観そのものを書き換える」という方法。大技です。なにせ、ゲームのルールを変えてしまうわけですから。ただし、僕の心の中だけですが。そして、その新しいルールが h-index なわけです。

階層システムの多くは、ある直線的な一本道の価値観を設定することで機能します。だって、一本道で脇道がなければ、自分の前にいる人間の言うこときかなきゃその先に進めないじゃないですか。助教授が助手と喧嘩しても教授にはなれるかもですが、助教授が教授と喧嘩したら教授にはなれません[2]。

まあ、本来、そのこと自体がおかしいのですが。だって、研究者・技術屋としての能力は教授と仲がいいかどうかとは関係ないのですから。でも、そのおかしいところを押さえつけて階層社会を作るにはどうしたらいいのか?それが「抜け道のない一本道の価値観を作ること」です。その価値観の中では、道の前にいる人間は道の後ろにいる人間に対して絶対的な影響力を持つことになります。とうせんぼできますから。しかも、このとうせんぼ機能、それを本人が望む望まないにかかわらず発生します。だから、教授がそんなものを望んでいない場合すら、時としてその階層構造は発生してしまうのです。

では、その「抜け道のない一本道の価値観」に支えられた階級システムを打破するにはどうしたらいいのか?簡単です。「抜け道」を作ればいいのです。抜け道があれば、前にいるやつなんて怖くありません。なにより、道が一本道でなくなった時点で「前」は「前」でなくなり「後」は「後」でなくなります。いや、「前」「後」、「上」「下」という概念自体が消失するのでしょう。

それは、軽薄な一般的な言葉を借りるなら「価値観の多様性」、もっと単純でわかりやすい言葉を選ぶなら「自由」ということだと思います。

そして、僕にその自由を返してくれたのは h-index でした。大学で研究者として成功するためには、別に教授になる必要なんてないのです。だって、そのへんでエヘンエヘンしている教授より高い h-index を獲得すれば、僕の心の中では「俺のがアカデミストとして格上」です。教授の給料なみのお金が欲しけりゃ特許書いて企業に売ればいいのです。名詞に書く肩書きに興味がなければ、これおでおしまい。勝負ありです。

もう、階級なんて怖くありません。納得のいかないことは大きな声で「納得いかねー!」と言えるし、思い切り喧嘩だってできます。生きてるのが楽しくてしかたありません。僕の中の世界では、大学の階級制度は、すでに崩壊したのです。

みんながこんな風に、自分の中に自分の価値観をもって、上目遣いじゃなく生きていくようになれば、一緒に飲みに行って楽しい人間がもっと増えるのになあ、と思ったりもします。

Joschi

[1] 実際にはそのうぶさゆえ、馬鹿にされもすれ、同時に愛されもするのですが、その辺の話は、そのうち、「飲み屋街からみた大学の先生」みたいな話としてまとめてみれたらなあ、と思います。

[2] まあ、これは極論。教授にも懐の深い人はたくさんいて、普通、一回喧嘩したぐらいで教授になれないってことはないです。中には、食ってかかってくる部下が可愛いという懐ブラックホールな教授もいます。

2007年6月4日月曜日

シロとフライパン

最近、ちょっとノイローゼ気味です。なにノイローゼかというと、猫ノイローゼ。

このブログでもちょくちょく話題にしましたが、現在、我が家には一匹の飼い猫がいます。で、最近、それとは別に2匹の白ネコが(勝手に)出入りしているのです。僕の留守中に。
我が家に。まあ、人間の留守中に猫が出入りできるような出入り口のある我が家も我が家なのですが…

この白ネコ(×2)、ちゃんと名前があります。一匹はシロ、もう一匹はフライパンです。シロの方は読んで字の如く、白猫だからシロです。もう一匹の「フライパン」という名前にも、ちゃんと由来があります。こいつ、毎回僕とはち合わせると、なぜかガスコンロの上のフライパンをひっくり返して台所の窓から逃げるんですね。で、フライパンと名付けられました。(ちなみに、こいつ「フライパン」と呼ばれる前は「ブサイク(仮)」と呼ばれていました。)

この2匹の白猫、同じ白猫でもだいぶ性格が違います。シロ(左の写真)は、まあ、紳士なんですね。我が家の唯一な正式な飼い猫(きちぢ)がご飯を食べていても、横から奪うようなことはしません。ちゃんと離れたところで待っていて、きちぢが残すと、その残り物を遠慮がちに食べています。たまにきちぢの不興を買って猫パンチを食らったりもしますが、その時も逆襲したりはせずに、おとなしく一人反省しています。また、普段の態度も堂々としたもので、僕が家にいる時でも、ひょこひょこと上がりこんできて、僕が本を読んでいる横とかで「ごろん!」と腹を見せて横になったりします。ちなみに、このとき、腹をこすってやると非常に喜びます。

で、問題はフライパン(右の写真)のほうなのです。こいつ、態度わるいんですよ。愛想もないし。顔も怖いです。まあ、僕とはちあわせるごとにフライパンをひっくり返して逃げるって時点で印象悪いわけですが、それ以上に、こいつ、まめにマーキングをするのですよ。我が家に。ぴっぴっと。逃げる直前とかに。

これ、目の前でやられると、かなりへこみます。疲れて帰ってきて、猫のおしっこの掃除です。でも、まだ、目の前でやられるのはいい方なのです。だって、そこを掃除すればいいわけですから。問題は、このフライパン、よく僕の知らないあいだにマーキングするということです。我が家に。これ、きついですよ。

一日の仕事が終わって、へとへとへとへと と家に帰ってきて、がちゃっと我が家のドアを開けると、臭いのです。苦いというかなんというか、猫独特の臭さがただよってくるのです。「やられた!」という気分です。家にいたはずのきちぢに「どこにしてった!?」と聞いてみても、きちぢも迷惑そうな顔をして不機嫌になっているだけで、マーキングの位置を教えてくれるわけではありません。しょうがないから自分で探すわけです。帰宅早々。鞄を背負ったまま。ふん!ふん!と鼻を鳴らせながら。家じゅうを嗅いで回るわけです。32歳独身(人間)が。客観的になると、へこみます。で、マーキングの位置を見つけると、さっそく掃除です。帰宅早々。32歳独身(人間)が。

これ、まあ、なんとか2、3回は我慢できます。でも、何度も何度もやられていると、なんだか、精神的に追い込まれてくるのです。普通に家でごろごろしていても、ふといつもと違う匂いが鼻につく(気がする)と「やられた!!」と思います。たとえ実際にはやられていなくても。なんでもかんでもマーキングの臭いのような気がしてくるのです。しまいには家の外だろうがなんだろうが、変なにおいがすると「マーキングされた!」と反応するようになります。職場ですら「あれ!ここ、猫くさい!マーキングされた!」とか反射的に考えてしまうしますです。ちょっとしたノイローゼです。

まあ、ここまで来ると、ちゃんと猫を追い出して根本解決しないと、その後の僕の社会生活にかかわります。ただでさえ社会不適合に片足半つっこんでいるのに、その上猫ノイローゼになった日には…。初対面の人と名刺を交換した直後に「あれ、□□さん、猫くさくないですか?」とか言いだしてしまいそうです。

でも、まあ、その根本解決、白猫に名前付けて楽しい気分になっている時点で、たぶん、できないんだろうなあ、と思うわけですが。

Joschi

2007年5月27日日曜日

声出せ、声! という話

大学院を卒業してからしばらくしたころ、僕はドイツのシュトゥッツガルトに滞在して共焦点顕微鏡のプロジェクトを手伝っていました。この滞在は僕にとって初めてのドイツ訪問であり、また、僕にとって初めての言葉の通じない外国で働くという経験でした。なんとか成果を挙げないといけないというプレッシャーもありましたし、それよりなにより、いろんな事を相談できる相手がいないというのもきつかったのです。そういうストレスでふらふらになりながら、僕が毎晩欠かさなかったのがドイツ語の勉強です。簡単なテキストを、CDを聞きながら、何度も何度も声に出して繰り返し読んでいました。今になって考えると、あのドイツ語の練習が、うまい具合にストレスを減らしてくれていたのかなあと思います。

技術というのは、まだろっこしいものです。技術屋がどんなに「人の役に立つ技術を作ろう」としても、結果的に、それが使えずにストレスを感じて胃に穴があく人もいれば、間違った使い方をして怪我をする人もいます。それどころか事故を起こして死んでしまう人までいます。技術屋は、人を幸せにするような技術を作っていきたいのだけれど、それが本当に人を幸せにするかどうかは、それはまた、別の話なのでしょう。

以前、僕がまだ学生だったころ、自分の実家まわりでいろんなごたごたが起ったことがあります。まあ、事態は当時の僕がどうこうできるレベルを超えてしまっていたので、僕としてはおろおろするばかりです。そんなとき「絶対に人を幸せにできるものってなんだろう」と考えました。で、僕の結論は「歌」と「笑い」でした。まあ、理由は単純。その時僕が「歌」と「笑い」で楽になったからです。辛くて飯も食いたくないような時でも、ちょっと鼻歌を歌うと楽な気分になりますし、笑ってる場合じゃなくても、テレビでお笑い番組でも見てあははと笑うと、だいぶんと楽になったりもするのです。不謹慎で、子供っぽいのでしょうが、事実、そうだったのです。

この「歌」と「笑い」、どうして人を楽にさせるのでしょうか?楽しい歌だから、楽しいネタだから、ではないと思います。だって、悲しい歌でも大声で歌うと楽になるし、人情話みたいな悲しい落語でも、聞けばすこし楽な気分になります。実は、僕、この原因、もっとすごく単純なものではないかと思うのです。それは「声を出す」ということです。

人が死ぬと、お通夜をして、お葬式をします。で、お通夜やお葬式ではお経を詠みます。まあ、このへんは宗教、宗旨、宗派によって違うのでしょうか、大多数の日本の家庭ではお経を読むのではないかと思います。僕これ、不思議だったんですね。人が死んで残された家族は悲しんでいるのに、意味も理解できないお経を延々読まされるわけです。悲しくてそれどころじゃないはずです。

この謎は、僕の祖母のお葬式の時になんとなく氷解しました。あんなに悲しかったのに、お経を声に出して詠んでいると、なんとなく楽な気分になったのです。多分、意味のわからないお経を「声を出して詠む」というのがポイントだったのです。声を出すから、人は楽になるのです。たぶん、お葬式、そしてお経というのは死んだ人のための儀式ではなく、その近くで生きて悲しんでいる人たちを救済する機巧なんだと思います。だから、お経には独特の節が付いているし、だまって「読む」のではなく声に出して「詠む」のでしょう。なんの根拠もない推論ですが、実際に祖母の葬儀の際に僕が楽な気分になったことは確かです。

判ってしまえばからくりは単純です。「声」さえ出せばいいのです。それだけで人は楽になるのです。だからいらいらした時とか「ああ!」とか、意味のない声を出すだけですこし落ち着いたりするのでしょう。僕はやったことないですが、ストレスたまった時とか、大声で叫びながら街中走りまわったら気持ちいいでしょうね。でも、まあ、そこは文明社会、そうそうそんなことするわけにもいきません。替わりに自宅で一人、ぶつぶつ何かを声にだしているだけでもだいぶ気分は楽になったりするのでしょう。でも、まあ、それはそれでやばい風景ですね。気分がすっきりして我に帰った後、またしょげてストレスたまってしまいそうです。無限道です。

で、最初の話に思い当ったわけです。多分、僕がドイツにいたとき、必要に迫られてやっていたドイツ語の勉強が、結局、ストレスのマネージメントになっていたのではないかと。語学の練習は、声を出します。しかも、きちんと大きい声で発声したほうが上達も早いと思います(僕の経験上ですが)。だから、語学の勉強である限り、ひとりで大きな声を出していても、ぜんっぜんやばくないのです!奇声をあげて夜中に町中をはしりまわるのとは大違いです。後で我に返ってしょげることもありません。人に聞かれても「あ、ドイツ語の勉強してた」と言えばいいのです。「熱心だねー」と、むしろ褒められるかもしれません。しかも、語学力が上達するという思わぬメリットまであります。

この方法、かなり使えると思います。たとえば僕たちエンジニアにとって、英語は必要なスキルです。でも、忙しすぎてただでさえストレスたまってるのに、この上英語の勉強なんてやってられっか!と、まあ、普通は思いがちです。でも、英語の勉強がそのままストレス解消になるとしたら話は別です。英語も身についてストレスともおさらば。夢のようです。日々のストレスにさいなまれている皆さん、語学の勉強でもしてみてはどうでしょう?疲れて家に帰ったら、大きな声でテキストの音読です。何もせずに風呂入って寝るよりは、疲れがとれると思いますよ。

Joschi

2007年5月22日火曜日

猫の皿洗い

最近、ちょっと真面目な話題が多かったので、久々にどうでもいい話。

僕は現在猫と二人暮らししています。。同居猫は先日、このブログでシロ猫との浮気を暴露された「きちぢ」です。そのきちぢ、最近その浮気を反省しているようで、だいぶ素行を改めだしました。その証拠に、この猫、ついに僕の留守中に家事をするようになったのです!

話はすこし戻ります。最近おなかの周りの贅肉の気になりだした僕(32歳独身)は、仕事帰りに「高機能体重計」を買ってきました。あの、ほら、足のところに金属の板みたいのがついてて、さらに、グリップ握って、体脂肪率とか骨格筋率とか測定できる体重計です。土浦のイトーヨーカドーで体重計を購入した僕は、お年玉でゲームを買ってきた小学生よろしく、体重計の箱を抱えて嬉々として帰宅しました。そして、おもむろに体重計を箱から出すと颯爽とグリップを握り、自らの体重と体脂肪率を測定したのです。

体重 63 Kg、体脂肪率 22.5%。やや肥満。ショックです。かつては体脂肪率 12% を誇ったわが肉体も、いまやただのおっさんです。しかも、さらにそれに追い打ちをかけるように、僕はある表示に気付きました。「体年齢37歳」。体年齢。その字面から想像するに、「体の年齢」なのでしょう。やっぱり。よりはっきり言えば、自分の体がどれぐらい年をとってるかということなのでしょう。つまり、まあ、なんというか、その、あまり認めたくはないですが、僕の体は37歳なみと、そういうことなのでしょう。安野嘉晃(32歳独身、体年齢37歳)。と、言うことですね。普通にしょげます。

一念発起した私はダイエット+健康的な食生活を決意しました。まず、毎日の晩酌を止めることにしました。これはいまのところ、5日間続いています。知人たちにアル中あつかいされる安野のことですから、これだけでも大したものです。そしてさらに、今回の健康生活のもう一つの柱として「朝食」を据えたのです。

今の生活、まあ、エンジニアの人はわかると思いますが、帰りが遅いです。そして、帰宅してから食事をとっていると、まあ、晩飯食べ終わるのが12時過ぎとか、そういう風に平気でなるわけです。で、今まではそんな状態で酒を飲み、そのまま寝たりするわけですから、朝飯なんて食べる気にはならなかったわけです。朝は胃袋動いてないですから。こんな食生活が健康的であるわけがありません。そこで、こう決めました。晩飯は軽くつまむ程度にして、朝飯を食おうと。この生活、やりはじめて見ると(あたりまえですが)かなり体調がよくなります。いままでサプリメントだ納豆だといろいろ健康に気を使ってみましたが、なんというか、そういう問題ではなかったんですね。結局、食生活の根本がまちがっていたわけです。


で、この朝食、最初のうちはパンとか食べてみたんですが、どうも寝ぼけまなこでパンをモソモソやると、のどが渇いて食べにくいんですね。そこで、小学生だったころを思い出し、コーンフレークを買ってきました。で、当然そこに牛乳をかけて食べるわけです。これ、(あたりまえですが)うまいですね。朝っぱらから喉を通る冷たい牛乳とフレークの歯ごたえが最高です。37歳独身の体にしみわたります。ああ、僕は健康になっていっている、という根拠のない幻想につつまれます。そんなすがすがしい気分なわけですが、所詮は37歳独身、食べ終わると後片付けとかはせずに、お皿をそのままにして毎日職場に出かけていくわけです。

そんな生活を始めて数日たったころ、ふと、あることに気付きました。帰宅して、畳の上に置きっぱなしになってあるフレークのお皿を見ると、なんか、ピカピカになっているのです。まるで誰かが洗ってくれたみたいに。僕は勿論洗っていませんし、僕以外の人間はこの家には入っていないはずです。ふとそばを見ると、猫のきちぢが幸せそうにニコニコこちらを見ています。その時僕はすべてを悟りました。きちぢ!君が皿を洗ってくれたんだね?「にゃー」それを肯定するようにきちぢは小さく鳴きました。

きちぢと暮らし始めて11年、いままで僕が一方的に養うだけで、掃除も洗濯もまったくしてくれなかったきちぢ、そんなきちぢがついに皿洗いをしてくれるようになったのです。ありがとう、きちぢ。なんだか、また一段ときちぢとの距離が近くなった気がしました。きちぢは僕の自慢の猫です。

でも、未だに解決できていない疑問もあります。どうしてきちぢは洗ったさらをわざわざまた畳の上にもどしたのでしょうか?どうしてコーンフレークの皿の横の湯呑は洗ってくれなかったのでしょうか?いや、なにより、それ以後もきちぢが牛乳をかけたコーンフレークの皿「だけ」を洗ってくれるのはなぜでしょうか?

この疑問の解けないうちは、きちぢの洗ってくれた皿も、自分で二度洗いしてから使うようにしています。

Joschi

2007年5月18日金曜日

負けて悔しい話

先日このブログに「負けて嬉しい話」というのを書きました。舌の根も乾かないうちにその逆の話。逆の話なのですが、これも同じ学会(アメリカの眼科科学会 アルボ・ARVO で感じたことです。


日本の科学技術は進んでいます。なにせ科学技術立国ですから。僕が子供の頃(1980年代)は確かにそうだったのかもしれません。まあ、そのころ僕はただのパソコン少年だったので、本当のところはわかりませんが。でも、少なくともそう信じて育ってきました。そのまま大学の工学部に入って、大学院に進みました。そのころもまだ、日本の技術は世界と肩を並べていると思っていました。だって、日本の学会に行くと偉い先生たちがそういうような事を言っていますし。たとえアメリカのグループがいい結果を出していても「独創性では日本の研究の方がすごい」らしいです。それに、アメリカは大国でお金もあるし、人もたくさんいるから、まあ、アメリカの方がすごいのは当然、でも、日本だってそれとタメはっているのです。と、信じていました。

2004年の1月、僕は初めてアメリカ・サンノゼで開催された Photonics West (BiOS) という学会に行きました。そこが、僕たちの研究分野の一番の大イベントの会場だったのです。僕たちはまだ日本の中でも駆け出しのグループで、国内でも無視されているような弱小グループでした。日本には僕たちより偉い「パイオニア」がたくさんいたのです。そんな弱小グループの僕が、サンノゼに行ってみました。行ってみたら、日本人は僕一人でした。日本で有名な「パイオニア」の先生の名前なんて誰も知りません。そして、その学会で発表される結果は技術先進国日本で、えらい大学の先生たちが発表し、そして多くの人たちがそれが世界の最先端であると信じていた技術の遥か先を行くものでした(注1)。ショックでした。悔しかった。日本のグループなんて、はなっから相手にされてないのです。

その学会から帰ってきてから、僕は周りの人間とよくもめるようになりました。僕一人、いつもイラついていたのです。周りに「お前らの信じてる世界は全部うそっぱちだ!世界はずっとずっと先にいってる!」っていっても、誰も信じてはくれないのです。そりゃ、そうです。僕だって、その学会に行く前にそんな「わけのわからないこと」聞かされたら「何いってんの?こいつ」と思うでしょう。だって、日本と世界の差は、普通に想像できる範囲を遙かに超えてたわけですから。

次の年、無理して予算を工面して、スタッフ全員をサンノゼに連れて行きました。そうしたら、僕と同じように「わけのわからないこと」を言う人間が増えました。その後は、辛くもあり、楽しくもある数年でした。そして、やっとこさ最近、この研究分野で、世界の中で日本のグループが認知されるようになってきました。僕たちのグループだけではありません。日本のグループ全体の話です。今年の BiOS では、この研究テーマのセッションの日本のグループからの発表が全体の 10% を超えたそうです。最初の年には話しかけてもろくに相手もしてくれなかったトップグループのリーダーの一人に「ここのところの日本のグループの成長はすごいなあ」と言われました。まだまだ世界に並ぶところまではいってないけれど、それでも凄く嬉しかった。なんだか、僕たちみんなが頑張ったことで、すこし世の中が変わったような、そんな気がしました。それが今年の1月のことです。


その3ヶ月後、僕たちはまたアメリカに行きました。フロリダで行われたアルボ(ARVO)に出るためです。僕たちが今までやってきた研究分野では、日本のグループは健闘していました。まあ、まだ全然勝ててはいませんが、でも、誰も日本のグループを無視したりはしなくなりましたし、きちんと同じ目線で技術の話をしてくれるようになりました。

でも、そこでふと、少し視野を広げて研究分野を見てみたのです。僕は技術屋ですから、眼科の臨床研究じゃなくて、眼科の工学技術の分野です。そこで愕然としました。その視野で見ると、日本はやっぱり、未だ世界に相手にもされてないのです。でも、僕が愕然としたのはそのことではないのです。そんなことはとっくに判っていましたから。僕が愕然としたのは「結局日本の中の世界は3年前と何も変わっていない」という事に気づいたからです。

未だに日本には日本独自の「パイオニア」の偉い先生がいて、みんなそれを信じていて、すごい金額の税金がそこに投入されていきます。でも、一歩世界に出れば、そんな人間、だれも相手にしてないのです。いや、正確には、そんなパイオニアがいることなんて、世界のパイオニアは全く知りません。だって、話にならないのですから。日本の技術は世界の10年近く後ろを歩いているのですから。アメリカのポスドクの一人に「この分野、日本の論文全然でてないね」といったら「オフコース!」と言われました。ショックでした。悔しい。

サンノゼでの悔しさから3年たって、大切なことは結局何も変わっていません。変わったことと言えば、役者がちょっと変わっただけです。研究分野は少しかわったし、それにかかわるグループも変わりました。でも、それだけです。日本は相変わらず「技術立国」のままだし、やっぱり今でも日本には「日本のパイオニア」がいます。


僕は、もう嫌です。こんな状況の中でだくだくと、ゆっくりと、でも確実に死んでいっているような、そんな生き方は、もう嫌です。日本の技術が世界をリードしていると思っている人は、勝手に思っていてください。僕たち COG が フーリエドメイン光コヒーレンストモグラフィー(FD-OCT) のパイオニアだと思っている人がいたら、それは騙されているのです。僕が騙していたのです。今の FD-OCT の基礎を気づいたのは マサチューセッツ総合病院のグループです。今までだましてすいませんでした。でも、これからは、もう、そんな嘘の片棒は担ぎたくありません。

いい加減、眼を覚ましてください。日本の眼科工学は、世界をリードなんてしていません!そんな偉い先生の言う事を信じて大量の税金をそこに投資している人がいたら、逃げずに、きちんと、自分の眼で世界を見に行ってください。僕たちは負けてるのです。しかも、惨敗です。


信じない人は信じなくて結構。現実の外でへなちょこなプライドを満たされたい人は、勝手にやってください。負けた悔しさを感じる感性も鈍らせてしまうようなニヤニヤなパーティーも、大本営発表みたいなシンポジウムも、もうたくさんです。僕はもう、付き合いません。僕はもう一度、一番下から這い上がります。どうせ、守るようなポジションも、人に胸を張れるようなステータスも僕にはありませんから。「成功」が好きな人はご自由に。僕は「成功していく面白さ」は大好きですが「成功」には興味はありません。


Joschi


注1)その先生たちの名誉のために言っておきます。その先生たちは、今思えば、その当時からフェアにきちんと世界の状況を紹介していました。でも、聞いている方が勝手に都合のいいところだけ聞いて、都合の悪いところは耳を塞いでいたのでしょう。だって、その方が気分いいですから。今になると、その時の先生たちの立場、判る気がします。

2007年5月13日日曜日

負けて嬉しい話

僕の働いている大学に MRI の研究をしている先生がいます。何年か前、MRI の基礎を作ったポール・ローターバーとピーター・マンスフィールドがノーベル賞をとった時、その人は自分のオフィスの扉に誇らしげにそのことが描かれた記事のコピーを張っていました。それが僕には理解できなかったのです。だって、もし自分が MRI の研究をしていたとしたら、その人たちは競争相手だったわけです。で、その競争相手がノーベル賞をとったら、僕だったら悔しいだろうなあと思うわけです。まあ、僕が人一倍負けん気が強いというのはありますが。だから、他人、しかも自分の競争相手が賞をとった記事を誇らしげに掲示しているその先生の気持が、やっぱりいまいち、わからなかったのです。


僕がいま従事している研究テーマには世界中にたくさんの競争相手がいます。負けると、それは悔しいです。いや、正確には「負けたと思うこと」が悔しいのかもしれません。だって、別に、誰かが勝ち負け決めるわけではないですから。自分たちのシステムの速度が競争相手より遅かった時、自分たちの作った装置の感度が競争相手より低かった時、自分たちの撮影した画像が競争相手のそれより汚かった時。やっぱり、「負けた」と思うのです。そして、悔しくなります。「次こそは負けたくない!」とか思うのです。こんにゃろー!とか思うのです。

そういう風にして競争を続けいていると、そのうち、競争相手を強く意識するようになります。強く強く意識すると、穴があくほど相手の一挙手一投足を見るようになります。相手が何をやっても気になるんですね。一応言っておくと、ほんとに相手の体の動きをみるわけではないですよ。相手の戦略とか、技術とか、ほんとにぎっちり観察します。相手の出した論文も穴があくほど読みます。また、これが悔しいのです。相手の書いたものを必死に読むことが。自分が負けてる事を真正面から認めてるようで。

そういう怨讐の生活を続けていると、なんだか変な気持になってくるんですね。全然関係ない第三者が、その競争相手のことをしたり顔で語ったりすると、なんか、腹が立つようになるのです。「お前にあいつの何がわかんだよ!」みたいな。多分、相手の書いたものを読み込んだり、相手のちょっとした発言について何日も何日も考えたり、そんなことをしているうちに、自分の生き方がそいつに影響を受け出しているんだと思います。そして、自分の生き方に影響を与える誰かがいるならば、それば、僕はその人を尊敬している、ということなのでしょう。本人には自覚はないんでしょうが。

そうなると今度は、関係ない誰かがそういう相手のことを悪く言うと、逆に腹が立ったりするわけです。自分だって関係ないのに。さらには、自分の人生のなかの大きな決断について、その競争相手に相談したりもするわけです。相手としてはいい迷惑でしょうが。


先日、イギリスのカーディフ大学の ヴォルフガング・ドレクスラー (Wolfgang Drexler)コーガン・アワード (Cogan Award) という賞を受賞しました。眼科学に貢献した40歳以下の研究者に贈られる、なんだかすごく名誉な賞です。このドレクスラー、僕から見ると、競争相手です。向こうは僕なんて眼中にないのでしょうが。何せ、僕たちなんて世界では全くの無名に等しいですから。

そんな競争相手のドレクスラー がそんなすごい賞を受賞しました(僕をさしおいて!)。そして、先日、その受賞記念講演が ARVO(アメリカの視覚眼科学会)の総会の中で、行われました。ドレクスラーが今までの彼の研究と、その中で彼が見てきたことを紹介し終わった時、会場の聴衆は席を立って拍手していました。僕も席を立って拍手していました。

拍手も静かになって、みんなが徐々に帰っていきました。僕はドレクスラーのところまで行って、おめでとうをいって、握手をして、それから帰りました。こんにゃろー!が賞をとったことが、僕は涙が出るほど嬉しかったのです。あんまり嬉しいので、彼の受賞記事、僕たちのオフィスの扉に張ろうかなあ、と、思うぐらいです。

Joschi

2007年5月8日火曜日

民主主義と選挙と多数決の話

僕のいた小学校では、生徒たちの間で意見が分かれると、ほとんどのことを多数決で決めました。今はどうかわからないですけど、少なくとも、僕がランドセルしょって毎日大声で歌を歌いながら通っていた頃はそうでした。たぶん、あれは民主主義教育の一環なんだと思います。で、子供心に「ああ、これが公平に物事を決めるということか」と思っていました。でも同時に、なぜか少数意見をもつことが多かった僕は「公平に決めるってのは、不公平なもんだなあ」と思っていました。だって、どんなに多数決をやっても、自分の意見が通ることなんて全然ないのです。少数意見ですから。ひたすら毎回がまんの日々です。

確かに、多数決をとって多数意見を採用するってのは一見公平です。でも、ここで言う公平というのは「常に多数意見を持っている人は10回中10回意見が通って、常に少数意見を持っている人は10回中10回我慢する」という公平です。あ、いや、別に多数決が不公平だと言っているわけではないのです。実際、ある時は少数意見を持っていた人が、別の議題では多数意見を持つこともあるわけですから。僕が言いたいのは、多数決が「唯一の公平さ」ではないのではないか、ということです。たとえば「多数意見を持っている人も少数意見を持っている人も10回中5回ずつ『公平』に我慢する」というような公平さというのも、あると思うのです。

少し話がかわります。僕の働いている大学ではいろんな事を内部の選挙で決めます。学長を決める選挙、研究科長を決める選挙、専攻長を決める選挙。それぞれ、選挙管理委員が選出され、被選挙人名簿が作成され、必要に応じて立候補が届け出られます。別に選挙事務所が出来るわけでもなく、ポスターが貼られるわけでもなく、街頭演説をするわけでもありませんが、規定に基づいた「選挙のプロセス」が実行された後、最終的には組織の構成メンバーによる投票で当選者が決まります。それは大学運営の民主制という観点から一定の意味のある行為だと思います。

でも、やっぱりここでも僕は「選挙以外にも民主的な方法はあるんじゃないかなあ」と思ったりもします。もちろん、選挙に反対してるわけではないですよ。でも、特に少人数の組織であれば、きちんと話し合うことで選挙にたよらず民主的な決定はできるんじゃないかなあ、とも思いますし、逆に、選挙だって形だけで実行してしまえば非民主的になることもあるんじゃないかなあ、と思うのです。

先日、統一地方選挙というのがありました。僕は仕事の規定上選挙活動に参加することは出来なかったのですが、知人のお父さんがある市議会選に出馬したため、比較的近くで選挙の様子を見聞する機会にめぐまれました。皆さん、「候補者側から見た選挙」というとどういう印象がありますか?僕は正直、具体的なイメージはありませんでした。選挙には誰でも立候補できるといっても、実際には選挙基盤を持ってる人間じゃないと選挙に出ても何も出来ないと思っていましたし、だったら結局、世襲世襲の「議員階級」という社会階級という人達の世界じゃないかと。漠然とそういう事を考えていました。

でも、近くで見た市議会選は違ったんですね。ビラを配るのも友人・知人、ポスター貼るのも友人・知人、選挙カー運転するのも友人・知人。全部手作りなのです。そして、そういう人達と話していると、それぞれが市の政治に対する意見があるんですね。具体的なものから漠然としたものまで、大域的視点から局所的な視点まで。そういうのを見ているうちに「ああ、これが民主主義なのかなあ」と思うようになりました。「投票」という多数決が、ではありません。「それぞれ少しずつ違った意見を持っている人たちが、いろいろな事を話し合って考えながら一緒に政治に介入していく」その過程が民主主義に見えたのです。

たぶん、今まで僕は勘違いしていたんですね。それは「選挙=多数決(投票)」という勘違いです。たしかに多数決・投票という行為は選挙を構成する重要な要素の一つです。でも、それは必ずしも選挙の本質ではないのだと思います。投票に至るまでの過程もすべて含めて選挙なんですね。つまり、選挙というのは多数決よりも上位の概念なわけです。言われてみると当たり前なんですが、なかなかそういう風に考える機会って、なかったんですね。

さらに考えていくと、実は「選挙=民主主義」というのも勘違いであることに気付きます。確かに、選挙は民主主義の実装の一つです。実際に選挙に参加することで人々は自分たちの意見を政治に反映させる権利を手に入れます。つまり、民主的というのは「人々が自分たちの意見を全体の意見に反映させられる状態」の事なのではないかなあ、と思います。そして、自分たちの意見を反映させられるのであれば、別にそれを実行する形は必ずしも「選挙」である必要はないのです。たとえば、仲間 3 人で昼飯を食いに行く時、何を食いに行くかで悩んだら話し合えばいいのです。選挙なんてしなくても、それで民主主義成立です。

たぶん、選挙というのは「大きな人数の組織で効率的に民主主義を実装するための手法」の一つなんですね。だから、やっぱり「選挙 = 民主主義」にはならないのです。民主主義は選挙の上位概念であって、民主主義を実行する方法は、他にもいろいろあるのです。

こうやって順番に考えていくと、民主主義と選挙と多数決の三者関係がはっきりしてきますね。つまり「民主主義 ∋ 選挙 ∋ 多数決」ということです。多数決(投票)は選挙の一部ではあるけれで、選挙の本質は多数決ではないし、選挙は多数決のみによって成り立つわけではありません。そして、選挙は民主的な運営の一つの方法ではありますが、選挙を行うことがすなわち民主主義というわけでもありません。こう書いてしまうと当たり前の結論なんですが、漠然ととらえていると、勘違いしやすいなあ、と思います。実際僕自身も、こういう風に考える前は、たまに見かける乱暴な多数決に対して、どうしてそれに違和感を感じるのか、はっきり説明できませんでした。(まあ、そういう多数決って、だいたいが「昼飯にカレー食うか、うどん食うか」というような、たわいのない話なのですが…)

たぶん、僕たちが一番気をつけないといけないのは、多数決や選挙を行うことで「自動的に民主的になっている」と思い込んでしまうことです。多数決や選挙はうまく使えばいろんなことを民主的に決められます。でも、その前に「本当にこれで民主的なのか?」「ほんとうにこれで公平なのか?」[1] と考えてみる必要があるのではないかと思います。必ずしも多数決=民主主義ではないのです。意外と多くのことは、きちんと全員で話し合うことで多数決にたよらず民主的に解決できるんじゃないかなあ、と、僕は思います。

Joschi

[1] 僕自身は「公平」ということ自体が、実はかなりあいまいなものだと思っています。それは「公平」という概念が特定の、しかも任意な、基準に基づいた相対的な概念でしかないと思うからです。

2007年5月5日土曜日

ダメ人間はゴミを捨てないの法則。そして、ゴミ収集カレンダー RSS のレビュー。

ダメ人間って、どういう人間の事をいうのでしょうか。いや、ほんとに嫌な奴って意味ではなくて、なんとなく、なんとも憎めない愛すべきダメ人間というか、まあ、そういう意味で。どうやら、そういうダメ人間の条件の一つは「ゴミを捨てずに部屋にためこむ人間」のようです。


仕事関係で僕を知っている人は、当然知っているのだと思いますが、僕は大学で教員をやって生計をたてています。ところが、この事、仕事以外の僕の知り合いの間ではあまり知られていません。いや、隠しているわけではないのです。でも、みんなあんまり信じてくれないのです。なにより、みんななんとなく、僕の風貌から、僕が安定収入のある職に就いているとは思っていないようです。いままで勘違いされていた中で一番まともだったのが「自称イラストレーター」と「自称ライター」。さすがに「イラストレーター」は違いますが、「ライター」は当たらずしも遠からずです。論文書くのが仕事ですから。

あと、なかなか卒業できなくて年とった学生だと思われてることもよくあります。「いつ卒業すんの?」と聞かれたり。学会に行ったときに「筑波大で OCT の研究なさってるんですか?じゃあ、安野先生のところの学生さんですか?」と聞かれたこともあります。その時は「あ、まあ、そんなところです」と答えておきました。

こんな風に、いろいろ言われる僕ですが、一番広く信じられているのが「安野フリーター説」です。さすがに 32 歳で一人暮らしですから、仕事はしてると思われてるようです。猫も養わないといけませんし、収入0では生きていけませんから。でも、定職に就いているとも思われていないようです。しかも、その知人たちは漠然とそう思ってるだけではなく、どうやら、信じ込んでいるのです。たぶん、そう信じ込んでる別の誰かから聞いたのでしょう。「そういや、安野君って、仕事なにしてんのかな?」「フリーターでしょ?」とか。「ああ、なるほどねー。それっぽい。それっぽい。」とか。で、真剣な顔で「安野君、もう若くないんだから、そろそろちゃんとした仕事見つけた方がいいよ」と説教されたりするのです。まあ、そう言われて「そうですねー。なんかいい仕事ないですかねー」と本気で転職を思う僕も困ったものなのですが。

どうして僕は三十二にもなって、特に根拠なく、こんな風にみんなに思い込まれているのかと、それで僕は考えてみたわけです。僕の結論は… たぶん、オーラが出てるんですね。ぷらっぷら生きてるオーラが。憎めないけど頼りにもならないオーラが。たぶんうなじのあたりから、ゆらっゆらと、中途半端に灰色とか、そういう頼りない色のオーラが。


先日、高知の友人から「お花見やるよ」と連絡をうけました。ぷらっぷらオーラ全開の僕は即答で「行きます!」と答え電車に飛び乗りました。お花見やると四国から連絡を受け、一も二もなく出かけることも安野フリーター説の原因になっているとは思うのですが、それは、まあ、いいのです。で、そのお花見に行った先の高知で、友人と帯屋町に飲みに行ったのです。で、そこで会った初対面の人と話しているうちに、こう言われました。「あれ?安野君、ひょっとしてダメ人間?」僕「あ、はい、そうです。よく言われます」「ようこそ高知へ!ダメ人間!」と。そしてその後つづけて言われたのです。「とりあえず、ゴミは捨てような」と。

(!!!)びっくりです。確かに、うちの台所にはゴミの日に捨てそびれたビールの空き缶が転がっています。一応ゴミ袋には詰めてありますが、でも、それが4袋も。ただ、そんな話、全然まったくしてないのです。ところがなんか、ばれてるのです。いや、たぶん、ばれているのではないのです。推測されたのです。「ダメ人間はゴミを捨てない」の法則なのです。たぶん、いままで僕が知らなかっただけで、世の中にはそういう真実があるのです。


それをきっかけに僕はダメ人間からの脱出を心にきめました。かなりゆるい決意ですが。で、そのための駄一歩として「ゴミは捨てよう」と決意したのです。ゴミを捨てて身も心も軽やかに、第一宇宙速度[1]を超えてダメ人間から脱出です!

ところが、襟元から灰色のオーラを出し続けている僕にはあいにくと、「ゴミを捨てる」ただこれだけのことが出来ないのです。最大の敵は、(僕にとっては)複雑怪奇なゴミ収集日程です。燃えるごみはまだしも、カンとか、ビンとか、ペットボトルとか、燃えないこいつらを、どのタイミングで出していいいのかわからんということです。「ゴミ収集カレンダー」を見ればわかるのでしょうが、そんなのまめにチェックできるぐらいならハナから灰色のオーラなんて漂わせていないのです!

そんな僕についに救世主が現れました。それが「つくば市ごみ収集カレンダー」の「RSS」です。いやあ、便利に世の中になったものです。ゴミ収集も IT 化の時代です。この RSS、自分の使ってるリーダーに登録しておけば「今日収集予定」を毎日教えてくれるわけです。夜中の12時に更新されますから、寝る前にチェックして、ゴミをまとめて、ゆっくり寝て、翌朝出勤の時にゴミを出していけます。

まだ使い始めて一週間ほどですが、我が家にたまっていたゴミ、だいぶ減りました。この調子でいけば、心も軽く第一宇宙速度を超えられる日も近いでしょう。ただ、問題は第一宇宙速度を超えただけでは、ダメ人間の周りを周回するダメ衛星にしかなれないことですが…。

ダメ人間脱出のための第二宇宙速度[2]への道のりはまだまだ遠いようです。

Joschi

[1] 第一宇宙速度:地球の大気圏から脱出するためにロケットが必要とする打ち上げ速度です。これを超えるとロケットは大気圏を脱出し、衛星軌道に乗ることができます。
[2] 第二宇宙速度:地球の重力を振り切り太陽周回軌道に乗るために必要な速度です。詳しくは、たとえばWikipedia 日本語版の記事参照。

2007年5月3日木曜日

4,500万円で買える物

この原稿、しばらく前に書いたのですが、公開するかしないかかなり悩みました。これを掲載することで、僕自身の立場も悪くなるのかもしれません。でも、昨今の僕か見える風景を「うん!」と感じていると、やはり、誰かが声を出さなければいけないのではないかと思います。この原稿を読んで不快に思う人も多います。僕は、僕の意見がただ一つの正しい意見だとは思いません。もし、この原稿を読んで、途中で不愉快だと思う人がいれば、どうか、その場で読むのをやめてください。もし、最後まで読んでくれた人がいれば、どうか、これをきっかけに考えてみてください。何を考えろというのではなく、いままで自分が考えなかったことを、これを機に考えてみてください。それでは、始めます。



銭ゲバを自称する僕は、なんでもお金に換えて考えます。会議で人を拘束する時間、出張の移動にかかる交通費と時間コスト、スタッフのコミュニケーション量が半分になると年間いくらの損失になるのか?とか。それでは質問、人の命の値段っていくらぐらいでしょうか。

僕はいつも一人頭4,500万円で計算しています。意外と安いですね。でも、まあ、こんなもんですよ。人の命なんて。

昔、僕にとってとても大切だったある人は 4,500万円を工面するために遺書を書いてどこかにいなくなってしまいました。たぶん死んでるでしょうけど、未だに死体は見つかっていません。死ねば保険金でもおりるとおもったのでしょうか。だとしたら浅知恵ですね。失踪は7年しないと死亡認定もされず、保険金もおりないのです。死ぬんだったら見つかるように死なないと。だからその死には何の意味もないのです。意味はないのだけれど「4,500万円のために一人の人間がいなくなった」という事実は変わることはありません。

それ以来、僕の中では、人ひとりの命の値段は4,500万円です。国から研究費が配分されると、すぐに「命」の単位に換算して考えます。一億三千万の予算だったら、人の命およそ3人分です。ほんとのところはわからないけれど、僕の頭の中の世界では、その予算を動かす税金を納めるために3人の人間が死んでいるのです。ちょっと矛盾しているようですが、働けば働くほど赤字になってしまって、結局そのために死んでしまうような、そんな生活をしている人でも、いや、むしろそういう生活している人ほど、たっぷり税金を払うということもあるのです。世の中一筋縄ではいかないのです。

僕たち国立大学で働く技術屋の仕事は、そういう人の命を燃料にして動いているんだと、僕はいつも、そんな窮屈なことを考えています。だからせめて、燃費を上げたいのです。3人の命を燃料にした研究なら、その結果、少なくとも3人の命を救うように。もっとたくさんの人を幸せにするように。たぶん、ただの自己満足なのですが、せめてそれを目標にしたいと思っています。

もし「予算を獲得する」ことが成果だと思っている研究者がいたら、たまには、その予算のもとになっている税金を払うために、自分の命を金に換えている人がいることも考えてあげてください。

たぶん、頭のいい研究者の人たちからみると、ばかな人生に見えるのかもしれません。でも、僕の生きてきた周りには、愚直なまでにまじめで、僕たち研究者を心から信頼してくれて、そのために自分の人生を犠牲にしてでも僕たちを支援してくれているような、そういう人がたくさんいました。僕には、そういう人がばかだとは思えません。

日本は意外と福祉制度が充実していて、いざとなれば生活補助で生きていけます。でも、やっぱり、どんな時でも、そういう支援からもれてしまうような、そういう生活って、あるのです。逃げ道があるのに、それに気付かないぐらい近くしか見えなくなるような、そういうつらさもあるのです。理屈はいろいろあるのでしょうが、つらいものは、つらいのです。

いたずらに予算を獲得することが成果だと思うのは、どうかやめてください。「余った予算を消化する」というような不潔な言葉は、どうか使わないでください。「自分たちが使わなければ他の人間が使うだけ」というような予算があって、そして、自分たちが本当はその予算が必要でないなら、どうかそのお金は使わないでください。みんながそうして使わなければ、最後にはきちんと必要な人に渡るはずです。そうならないかもしれないけれど、あなたが無駄につかってしまったら、その命は、そこで終わるのです。もし予算があまって、全然必要ないものを買うぐらいなら、どうか勇気をもって、その予算を返還してください。ブラックリストに載るかもしれませんが、人の命を浪費するよりはましです。

たくさんの税金を動かしている人たちは、どうかもっと、あなたたちの動かしているお金のことを好きになってあげてください。それは、「予算」という仕事の道具ではなくて、お金という形をした人の命だからです。予算を配分する前に、自分の大切な人が身を粉にして働いて払った税金を、本当にその人たちにあずけていいのかどうか、きちんと考えてください。そして、そのお金を誰かに預けたら、それがきちんと世の中をよくしていくかどうか、最後まで目をそらさないでください。

成果を報告する研究者の人たち。どうか、嘘はやめてください。ほんとは他より劣っている技術しかできていないのに、それをすごいことのように報告するのはやめてください。そんな嘘をついても、人の命は救われません。自分たちが一生懸命働いて、それでもその予算が無駄になってしまったら、その事実をきちんと受け止めてください。そして、次またがんばればいいのです。そのためにも、まず、事実を受け止めてください。

人の命は、お金には換えられません。でも、それが換えられてしまう世界もあるのです。僕たちは人の命を使って仕事をしているのです。

Joschi